宮崎カポネ信義

 

CAPONE JAZZ STYLE

 

 

 

 

 

     カポネのつぶやき

 

2024年

4月

01日

昆布森    13

僕にとっては 自分の意志とは 関係なく始まった 仁仁志別の2年間 昆布森での2年間の合計 4年間の 奇妙な 悪夢のような 柘植家の生活、、、、、、、、、

突然終わりを 柘植 いや 告げました

母親と姉 おばあちゃんと柘植広 の

二日間の話し合いも終わり 2、3日して 

母親と姉が 夕張に帰る時に 僕も 一緒に夕張に 帰ることに なったのです

すっかり 諦めていた中学生2年の私は 少し 希望と言うか 明るい未来を 感じるようになりました

取り敢えず 荷物は何も持たず 身ひとつで 夕張に 帰りました

柘植広やおばあちゃん 安子に お別れの挨拶をしたのか どうかさえ 記憶に有りません 

とにかく 釧路行きの バスに 母親と姉と3人で 乗ったこと

バス停には 誰も 見送りに こなかった事も 何となく 覚えています

逃げるようにして 帰る と言うのは こんな事を言うのではないか と言うくらいの 出来事 です、、、、、、

私は 何も 悪い事はしていないのに、、、

こんな風にして 柘植家での 生活は終わりました 、、、、、、

14歳の中学生ですから 乗り物の切符とか 旅行の手配など しませんから あまり覚えていないのですね 

その時の様子を 、、、、、、

釧路行きのバスに乗っている時 

早く 釧路に着いてほしい 

途中で 母親や姉の気が変わるのではないか?

おばあちゃんたちが 追いかけて来て

連れ戻されるのではないか?

と その事ばかり考えていました、、、

そんな心配も 徒労に終わり 釧路に着きました 

夕張方面に行く 汽車の時間まで 時間があるとの事で どこかで 食事をしましょう と デパートの 食堂に 入りました。

信義 何でも好きなもの 食べなさい

と母親が言うのですが 直ぐには 何をどうして良いか 思いつかないくらい 

おとなしい 暗い少年に 成っていました、、、、、、

海老フライ定食 を 食べました

夕張から仁仁志別に連れて行かれそして昆布森での 4年間 一度も 食べた事がない 食べ物でした 

潜在意識にまで 届こうかと言う 記憶でした、、、、、、

明日から夕張で 柘植信義 として

中学3年 として 生きて行こうとしているのでした、、、、、、

終わり、、、

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2024年

3月

29日

昆布森    12

母親と姉(実の)の前で 柘植広への朝の挨拶 をしました

僕にとっては 決められた 躾 であり

日常の事 でしたが 一言の返事もない柘植広の態度 それに 抵抗する事も 反抗することもなく 従順に従っている 変わり果てた私の姿に 

2人は ある種の危機感 を感じたのではないでしょうか

このまま 柘植家においていたら

信義は どうにかなってしまうかもしれない!

その様な気持ちで 昨夜の話し合いになったのだと 思います

ボクの方から 母親に 夕張に帰りたいと一言も言った事は有りません

何故なら 毎日の様に おばあちゃんから  生みの親より育ての親

 育ての親の恩を忘れてはいけない!

と 言われていたので そのことに触れてはいけないと自分で決めていたのです

その話し合いは 次の日の夜も行われました

その時に出来た結論は 

夕張の高校に通わせる

しかし 名前は 柘植信義でいる事 

柘植家の跡取りという立場は変えない

と言う事でした、、、、、、

名前なんか どうでもよくて この 柘植の家から 脱出できる! という事が

14歳に成っていた 信義少年 には

とてつもなく 嬉しい事でした!

続く、、、

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2024年

3月

28日

昆布森      11

中学生2年の春休み 私にとって 大事件

が 勃発 しようとしていました、、、

完全に 諦めていた 人生 未来に

一筋の光が 差し込んでいるのです!

何時も ボクが 寝かせられた後の

夜 7時過ぎから 母親と姉(実の) 

柘植広とおばあちゃん が ボクの高校進学について 話し合っているのでした

ボソボソと 途切れ途切れにしか 聞こえてきません  その話し合い、、、、、、

ボクとしては 寝ている場合じゃ 有りません!

布団の上に 身を乗り出して 腹ばいになり あごに 手を当てて 必死になって 耳を澄ませていました

漏れ聞こえて来る 内容は 

昆布森から 釧路の高校に通わせるのは

信義にとっても 大変だから 

夕張の高校に通わせたらどうだろうか?と言う 母親と姉、、、

少しずつ おばあちゃんもその意見に賛成していくようでした!

やったー! もしかしたら 夕張に帰る事が 出来るかもしれない!

こんな日が来るなんて!

    なんていう日だ!!

しかし 柘植広が難色を示していました

せっかく 跡取りとして養子にした信義を 夕張に帰すと 元も子もなくなってしまう と言う 打算 が見え隠れしています

ボクは心の中で  お前なんか 親としての 愛情なんか無いんだから 

ボクを夕張に帰せ!

うん 分かった と言え!

と思っていました、、、、、、

そのうち 眠くなってきて 寝落ちしてしまいました、、、、、、、、、

次の日の朝 何事も無かったように 1日が始まりました、、、、、、

母親と姉の見ている前で ボクは 柘植広に向かって いつもの様に正座をして おはようございます とあいさつをしました

いつもの様に 柘植広は 無言で タバコをふかしています 一言の返事も有りません、、、、、、

母親と姉は それでも きちんと朝の挨拶をさせられる 変わり果てた 信義 の姿を 見たのでした、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

27日

昆布森     10

平平凡々と 毎日を 過ごしていた 昆布森での 中学生 生活も2年が過ぎて春休みに成ろうとしている頃

母親と上の姉(実の) が 来ました 

どうやら 姉が 結婚するので おばあちゃんに挨拶する為 の様でした 

四年振りに会う僕の様子に少し驚いていた様でしたが、、、、、、

一週間もいたでしょうか

その間に 柘植広とおばあちゃんと母親と姉の間で ある事を 話し合っていました 、、、、、、

ソレは 僕の 高校進学についてのことのようです

昆布森には 高校が無く 釧路まで 通学しなくてはいけません

バスで 4〜50分かかります

それなら 信義も大変だから 高校生の間 夕張の宮崎の家で 預かる事にしようか!  と言うもの でした

夕張には 北高校 南高校 工業高校 と3つ高校が有りますし

多分 ボクのあまりにもの 変わりように 母親と姉は 危惧を感じたのではないでしょうか、、、

高校進学を口実にして 夕張に連れて帰りたかったのかもしれません

ボクが寝かせられる 夜 7時 過ぎ

ボソボソと 断片的に その話し合いが漏れ聞こえてきます

私にとっては 大事件です!

全く 諦めていた人生に 一筋の光が

差し込んでいるのです!

おちおち寝ている場合では無いのですが

かと言って その話し合いの場に 殴り込むわけにも 行きません、、、

じっと耳を澄ませて 話し合いを聞こうとするのですが 良く聞き取れません

、、、、、、、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

26日

昆布森     9

僕にとっての 昆布森での 2年間は

あまり思い出に残る様な事もなく 平凡な 日々 でした、、、

その様な 生活の中でも 今でも 忘れられない事があります

ソレは たまに 漁師さんが リヤカー

いっぱいに積んで売りにくる 花咲ガニ

おばあちゃんは 函館の 森? とか言う 海に近いところの 生まれで しかも 庄屋さんの娘さんだったので 裕福に育てられた様で 美味しいことや 色々な事に 非常に詳しい人でした

昆布森で たまに漁師さんが リヤカーいっぱいに花咲ガニを積んで 売りにくると  おばあちゃん 花咲ガニ 30ぱい(匹) くらいまとめて買います!

何と 1匹 50円 くらいでしたから、、、

ソレを 大きな鉄鍋 で一気に茹でます 

そういう時の おばあちゃんは 本当に気前が良く 食べれるだけ食べても怒られません!

ボクは 何時も 3匹くらいは食べていました、、、、、、

海のない 夕張育ちの 田舎の子供でしたから 花咲ガニ なんて 初めてです

こんな美味しいものが 世の中に 有るのか!  というくらいの衝撃でした

美味しかった !

花咲ガニ 凄いですよ、、、、、、

60年くらい前の 昆布森の花咲ガニ、、、

今の花咲ガニと 同じなのでしょうか?

最近は 食べた事ないですね 、、、

続く、、、

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2024年

3月

25日

昆布森    8

何時も おしん?的な 事を 書いている様に 思われがちですが ボクは おしん と言うドラマ 見たことが無いのです♪ 国民的ドラマの様に 言われていたので あの有名なセリフ、、、、、、

同情するなら 金をくれ!

は 知っています     笑

凄いセリフですよね

と言うことは おしんと言う子は 相当 貧乏だったのですね、、、

柘植家は 貧乏では ありませんでした

校長先生 ですから 安定した収入が あるし 食べるものも 着る物も それ相応に 満たされていたのです が

肝心の 心 が 満たされることがありませんでした、、、、、、

仁仁志別の大自然に囲まれて

夕張にいた時には 考えられない様な 様々な体験をして 子供ながら 大自然と一緒に自分の心を 育ててきたのです

ところが 昆布森に来てからは 海 しか無いので 夕張に帰りたい と言う気持ち が 何時も湧いてきていました 

それでも 広ーい 海岸沿いの砂浜に 昆布の季節になると 幅 50センチ

長さ10メートル位の昆布が ビッシリと

並べられている 光景は 圧巻 でした

海から 採ってきた 大量の昆布を漁師の家族総出で 大人も子供も 砂浜に 昆布を干すのです♪

両手に 長ーい昆布を持って 海の方から陸の方へ向かって 右 左と交互に引っ張って砂浜の砂を昆布に 付けながら

砂浜地 一面に干すのです、、、

何故 砂を付けるのか と同級生に聞いた事があります 

暖かい砂を付ける事によって 昆布が 早く乾燥するのだそうです

乾燥してから 砂を綺麗に 取り除く、、、

なるほど、、、 長年の 知恵 ですね

流石に 昆布森と言う名前が 付けられる土地の 光景でした 、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

22日

昆布森     7

柘植家に突然 連れてこられて 3年目の秋 昆布森中学で 学芸会があり

夕鶴  の与ひょう の役を 担任の先生から 命じられて 必死になって 長台詞を 練習しました、、、

実は その事を言いたかった訳では 無かったのです

ソレに伴って起こった出来事の方が 忘れられなかったのでした、、、

一生懸命 長台詞を暗記する為練習していたある日 おばあちゃんから呼び出されて きつく怒られました

信義が夜 寝る時に 意地悪をして 長時間 何事か ぶつぶつ 話して うるさくて眠れない  

意地悪をしている!  

と安子が言っている 

何故そんな事をするのですか!

、、、、、、、、、、、、、、、

安子と言う義理の姉 ボクが 養子にされる5〜6年前に おばあちゃんの体力が落ちて 家事が出来なくなった為に 柘植広がどこぞの農家から 養女に した人 です

家族と言っても 元は 他人です

ボクが 連れてこられる前は 自分が柘植家の後取りで  と思っていた様で

ボクのことは 想定外のようでした

好かれてはいない と言う事は 何となく感じていましたが 

夕鶴のセリフの件で 意地悪をしている

と言うのには 本当に 心底から 冷えてしまいました。

自分では そんな事していた覚えがないのです 

夜寝ている時も 無意識に長台詞を うわ言の様につぶやいていたのでしょう

ある意味 ソレほど 必死になって 練習をしていたのかも知れません

本当の家族 兄弟なら 頑張りなさいと応援してくれるはずです

柘植広はあんな感じ そして安子も こんな風で おばあちゃんは身内ではあるけれど ボクを 厳しく育てようとしていて、、、、、、

みんな バラバラ の家族の様な形をとって 生活していた 仁仁志別 と昆布森の4年間、、、

夕張にいた時は 明るく 素直な子供だった私は 本当に 暗く 淋しい子供になってしまいました、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

21日

昆布森     6

中学一年生の秋 だったと思うのですが

昆布森中学で 学芸会の行事が 行われました

何と ボクが 夕鶴 の主役 与ひょう

を 担任の先生から 命じられました

日頃から 急いだり 興奮したりすると 言語がままならない ボクに 学芸会の演劇の 主役、、、、、、

夕鶴 と言う物語は 傷ついた 鶴を百姓の与ひよう と言う青年が 助けてあげると しばらくして その鶴の化身の若い娘が 与ひようの所に現れて 一緒に暮らします

ある時 若い娘が 立派な織物を 与ひょうに プレゼント致します

与ひょうの 悪い友達にそそのかされて

その織物を 町に行って売って 大金を得ることになり アホな 与ひょうは大喜びします

純心な気持ちで 鶴を助けた与ひょうは 

織物を作るために 痩せ細ってしまったその若い娘の姿に一抹の不安を感じながらも もう一枚 作って欲しいと せがみ 娘も あまりにも 与ひょうが 頼むので 仕方なく 織物を 作ることを 約束します 作るところを 絶対にのぞかないで下さい との 約束を 与ひょうが破り 娘が織物を作って居る納屋を覗くと そこには 驚きの光景が!

何と 鶴が自分の羽を一枚 一枚 抜いて 織物を作って居るところでした!

見られてしまった 鶴は 泣きながら 大空に 飛んでいってしまう

自分の欲の深さで 大切な 女房を失って 後悔して 泣き崩れる、、、

と言う様な 深みのある人間の心を描いた 作品です

 結構な長セリフもあり ボクも必死の思いで 毎日 練習 しました、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

20日

昆布森     5

漁師町 昆布森での 2年間は ほとんど さしたる変化もなく 平凡な 生活でした、、、

仁仁志別の2年間に比べると 大違いです

中学一年生になったからなのか 

開拓地では ないので 平凡な 普通の生活が続きました

毎夜 7時になると 寝る時間です

眠くなくても 布団に入る様に 躾けられていました 

正座をして 柘植広に おやすみなさい

と 挨拶をして 居間の隣の部屋 の布団に入ります 

すると 柘植広は ほとんど毎日の様に ラジオをつけて プロ野球放送を聞いています

ジャイアンツ (巨人) が好きみたいで いつも 巨人対どこそこのゲームです

小さな音で聞こえてくる 野球放送を 夢中になって ボクも 耳を側立てて 聞いていました 

心の中で 思いました 一緒に 同じ部屋で 野球放送を聞かせてほしいなあ、、、  

そうしたら もっと 仲良くなれるかもしれないのに、、、

おばあちゃんに何百回も言われた 

生みの親より育ての親

育ての親の恩を忘れてはいけない

と言う事も 少しは 感じることができたかもしれないのに、、、、、、

いい大人が そんな子供の心も わからないのか?

それが 小学校の校長先生 なのか?

不思議 でした、、、、、、

柘植広 安子 おばあちゃんと一緒に 過ごした 4年間は ボクの素直だった心を 完全に 捻じ曲げてしまいました

夕張にいた時は 明るい 素直な子供だったのに、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

19日

昆布森      4

中学一年生になって 開拓地 仁仁志別から ある程度 開かれた 漁師町 昆布森に 自分の意志とは関係なく 連れてこられました、、、、、、

転校生として 昆布森中学に入学です

約50人程いたと思う 同級生達

誰1人として覚えていません

転校生と言うのは 周りから 奇異の目で 見られます

仲間に 入れなかったのか 入りたくなかったのか 記憶がありません 

同級生の大半は やはり漁師の子供達でした

昆布森は 町 全体を 海 が支配している感じで 仁仁志別 にいた時のような 変化に富んだ 生活の記憶が有りません、、、、、、

柘植広への毎朝の無言の挨拶 

夜寝る時の これまた 何の返事もないのに おやすみなさい と言わされる事も 、、、、、、

おばあちゃんに 毎日のように言われる

生みの親より育ての親

育ての親の恩を忘れてはいけない

お前は 柘植家の長男です

立派になりなさい、、、、、、

何の変化も無い 毎日でした

自分の部屋に こもって 北海道地図を眺めて 鉄道の線路を 釧路から 夕張までなぞって見ていました 

此処で二股になっているから 乗り換えるのかな? とか 空想で夕張まで 帰っていました

寂しい 中学生 でした、、、

続く、、、

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2024年

3月

18日

昆布森     3

家から 海の方に 2〜3分歩いて行くと左右に道が有り 左に10分位歩くと 昆布森中学校が有ります 

右に歩いていくと曲がりくねった登り坂道が有り やはり 10分位歩いて坂道を登り切ると 左側に 大きく 広場が有ります 

その広い場所に 灯台 が有り

高台になっている 所から 海が 一望出来ます 

仁仁志別 にいた時には 想像だに 出来なかった 素晴らしい 景色 でした

海を 1人で眺めていると 漁師町 昆布森 此処で 柘植信義 として 暮らしていくんだなあ と 漠然とした 想いが込み上げてきた 記憶があります。

仁仁志別とは 違い 中学校の同級生たちは かなりの数 50人近くは居たように思います それなのに

誰1人として 思い出すことができないのは 不思議な気持ちがします

夕張の同級生は 何人も 今でも 覚えているのに、、、、、、

仁仁志別 と昆布森の 4年間の生活は 

ボクにとって 何だったのだろうかと

今でも 不思議です 

周りの自然とか 風景は良く覚えているのに 同級生 達とは 交流がなかったのか ボクが おかしな人間になっていたのか のどちらかです、、、、、、

そんな昆布森での 思い出に残ったことなど 少し 書いていこうと 思っています、、、

続く、、、

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2024年

3月

16日

昆布森    2

中学一年生になった時 ボクは 昆布森と言う 漁師町に住んでいました、、、

相変わらず 柘植広 安子 おばあちゃん と言う 共同生活 でしたが 

仁仁志別 の時とは 周囲の環境が大きく変わりました

先ず 海 と言うものを 初めて見たのです!

良く 海水浴など 遊びで 海に行くと言う事 などを 経験する事が多くあると思うのですが 生活をしている場所に何時も海が有る のです、、、

昆布森小学校のグラウンドの端の方に

教員住宅が有り そこから後ろの方に 2〜3分歩くと一面に海が広がっています

海に向かって真横左右に 道がずっと続いていて 左の方に10分位歩くと登り坂道になります

その坂道の手前 左側に 昆布森中学校

が在ります 

その坂道を 上って 一山越すと 隣り町のようですが 行ったことは 有りませんでしたが、、、、、、

毎日 中学校に10分位歩いて 通っていたのですが 右側にずっと海が見えます

仁仁志別の時は 家のドアを開けると学校でしたから 

最初の頃は とても 新鮮な気持ちでした   ソレに中学校一年生ですから

少し大人 です、、、、、、

町は 何時も 昆布の匂いというか

潮の匂いなのでしょうか?

その 匂いが 広がっています

仁仁志別のような 開拓地の 澄んだ大自然 とは 大違いでした、、、

この村 町?で暮らすのだなあ と

自分に 納得させるまで 多少の時間が必要でした

何か 大きな運命のようなものに 

翻弄(ほんろう) されているような気持ちです、、、、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

15日

昆布森   1

仁仁志別で小学校5年生 6年生 と過ごした ボクは 柘植広の事情で 昆布森 と言う 漁村 で 生活する事になりました、、、、、、

教員と言うのは 赴任先の 地方の中で異動を繰り返す 仕組みの様で 

ボクの記憶している場所だけでも柘植広

は   、、、、、、、、、霧多布 標茶 浜中 仁仁志別 と 数年ごとに 赴任していた様でした いずれも 釧路管内 になります。

昆布森 も 釧路から バスで45分位 かかる 所にある 海 が 大きく広がり 海岸線の美しい 村 でした

村と言っても仁仁志別 とは 比べ物にならないほど大きな村 です

そこで ボクは 否応無しに 生活する事になりました、、、、、、

中学一年生 に なっていました

夕張を離れて 3年目の 春 でした

続く、、、

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2024年

3月

14日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、62

小学校5年生になる前の春休みに 仁仁志別に 連れてこられて 普通では 経験する事が出来ない 多くのことを 経験しました、、、、、、

渓流魚釣り 冬になり その川でのスケート遊び 裏山での スキー遊び ムロを作ったり 雑木林の木を切り倒し 文化薪を作ったり 雑木林を開墾して 畑を作って 色々な野菜 大根 ジャガイモ ほうれん草 人参 等等、、、を育てたり その時には 畑の肥やしとして 人糞をバケツで運んだり 大量の漬け物作りの手伝いをしたり 新鮮な牛の乳を毎日飲んだり 純粋な蜂蜜を好きな様に食べたり 蕎麦にしても 100% 手作りのものを食べたり トコロテンも100%手作り 餡子も 小豆から100%、、、家が学校であったり 世界少年少女文学全集を全て読んだり 体育館を自由に使い 1人卓球を壁を相手にしてやったり 1人バスケットボールをやったり、、、本当に 様々な 得難い 経験をしました、、、、、、

ソレらのことを 書こうと 決めて この連載を始めたのですが

色々な経験の中で 一番 心に響き 絶対に忘れる事が出来ない 経験が 

昨日 一昨日 書いた 母親との 再会であり

別れの悲しさの経験から 学んだ事 でした、、、、、、

仁仁志別には 小学校5年生 6年生と2年間 いました

柘植広の赴任先が 変わりました。

今度は 海 漁師町の昆布森小学校に赴任する事になりました、、、

明日からは 漁師町 昆布森 と言うところの 生活が始まります、、、、、、

ボクは 中学一年生になります、、、、、、

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、

      終わり

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2024年

3月

13日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、61

小学校5年生の夏休みも終わり 母親が夕張に帰って行きました、、、、、、

誰かが言った 心にぽっかりと大きな穴が空く、、、、、、

まさしく そんな状態でした 

それでも 時間が止まるはずもなく

日々が流れて行きます

母親との衝撃的な 別れを噛み締めている間もなく おばあちゃんから 

信義! ムロ を作りなさい!

とか 一斗樽 15〜6個 もの漬け物作りの手伝いをさせられているうちに 

だんだん 悲しみも薄らいで行きました

12月になり 新しい年を迎える頃には 又 7月の後半頃には 母親が来てくれる嬉しい、、、  と前向きな 気持ちになる事が出来ました 

日1日と数えるように夏休みを 待ちました 

あと 7ヶ月で お母さんに会える

あと 6ヶ月、、、 5ヶ月、、、 4ヶ月、、、

と 毎日 指折り数えるように 待ち焦がれていました。

待っている間は 楽しい事なので 気持ちは 前向きに なる事が出来ます

すると 不思議な事に 夏休みが 本当に 近づいてくると あんなに 待ち焦がれていたのに 少しずつ 悲しい気持ちが 混じるようになりました 

母親が来る日まで あと 3日、、、

あと2日、、、 あと1日、、、 当日になると

会えて嬉しいと言う気持ちよりも

あと 25日で 母さんは 夕張に帰ってしまうんだ、、、

会えて嬉しいと言う気持ちよりも 25日後に 帰ってしまう悲しみの方が 大きいのでした、、、、、、

なんと言う 心の動きでしょう、、、

わずか 10歳か11歳の少年が、、、

会えた喜びよりも 確実に起きる

別れの 悲しみの方が 強いのです、、、

自分では どの様に心を保てば良いのか

分かりませんでした、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

12日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、60

仁仁志別に連れて行かれて 一年目の

小学校5年生の夏休み 母親が 1ヶ月近く 柘植家に 来ました、、、、、、

自分の母親や子供の頃から兄弟のように育った 柘植広の家ですから 気を使うこともないので ユックリしていたようでした、、、、

毎年のこの行事は 以前にも 行われていたのです

記憶をさかのぼれば ボクが 6歳かそこらの頃 霧多布と言う 柘植広の赴任先に母親に連れて行かれて 遊びに行った事も有りました 

夏の 爽やかな風が 通り抜ける部屋で

昼寝をしていた記憶があります、、、

このように 母親にしてみたら 毎年の

夏の行事 だったのかもしれませんが

5年生になった ボクにとっては 初めての 経験でした、、、、、、

母親なのに 母さん! と言う事が出来ない!

おばあちゃんのいる前 だけではなくて

2人きりになった 

音楽室での 時でも

母さんと甘える事が 出来ないほど 

心に 叩き込まれてしまったのでした

お前は 柘植家の長男です!

生みの親より育ての親

育ての親の恩を忘れてはいけません!

立派になりなさい、、、、、、

あっという間に 母親が夕張に帰って行きました 

トロッコに乗って 山花駅 に行きます

馬車ですから ユックリ ユックリ 進むのでいつまでも 視界から消えません 

ずっとただ見ているだけです、、、

いつしか 涙で 目の前が かすんで

見えません 

泣くと おばあちゃんに怒られるので

じっと我慢しています

もう見えなくなったのでしょうか

おばあちゃんが家の方に 帰りましたが

ボクは じっと その場に立ち尽くしたまま  声を出さずに 泣いていました、、、、、、

小学校5年生の夏 でした、、、

続く、、、

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2024年

3月

08日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、59

小学校5年生の夏休みに 夕張から母親が

1人で 仁仁志別 に 来ました、、、

母親にとっては おばあちゃんは 実の母親です 柘植広は 子供の頃からの知り合いのお兄ちゃんで 自分の姉の婚約者でも あった人です 

柘植家は 居心地の良いところだったかも しれません

ボクは 逢いたくて 逢いたくて 待ち焦がれた 母親でした、、、、、、

しかし おばあちゃんに4ヶ月に渡り

生みの親より育ての親

育ての親の恩を忘れてはいけません

お前は柘植家の長男です!

立派になりなさい!

と言われ続けたせいか 母親に素直に

母さん!  と言って 甘える事ができませんでした、、、

少し離れたところに座って じっと下を向いて いるような子供になってしまっていました、、、、、、

多分 母親も あまりの ボクの変化に

驚いた事でしょう

かと言って 夕張に連れて帰ります と言って 啖呵(たんか!) を切るわけでもなく 大きな運命の流れに 逆らうことは 出来なかったのだと 思います、、、、

母親が 夕張に帰る 1ヶ月近く 2人きりになる事が ほとんどなく 何時も おばあちゃんがそばにいます 

夕張に帰りたい なんて 言えるわけもありません、、、

ある日 2人だけで 小学校の音楽室に行った事が 有りました

母親は 学校の先生をしていた事が 有ったらしく ピアノを少し 弾く事が出来ました 

夕張に居た時は そんな事聞いた事もなく 多少 ビックリしましたが 

その時 夕張で 流行っていたらしい

歌謡曲 北上夜曲 という歌 を弾いて 歌ってくれました、、、

物悲しい 旋律 と歌詞 子供ながらにも 心に響きました、、、

匂い優しい  白百合の

濡れているよな あの瞳

想い出すのは 想い出すのは

北上河原の  月の夜

仁仁志別小学校の 誰もいない 音楽室

母親と2人きりです 

母さん! と言って 抱きついて 甘えても良いのに じっと 大人しく 北上夜曲 と言う初めて聴く曲を 聴いて 泣いていました、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

07日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、58

夕張に居た 幼少の頃 冬 外で雪遊びなどをしていると 手が冷たくなります 家に帰ると 何時も 母親が  ブッちゃん おいでと 言って 座って ボクを抱きかかえて 自分の胸の中に ボクの手を入れて 暖めてくれました

お母さんの オッパイは 暖かくて とても 気持ち良かった、、、、、、

5歳か6歳くらいの記憶です

時が流れて 結婚をして 何年かすぎたある日 マコが 水仕事をしていた時

手が冷たい と言うので 

小さい頃 母親が ボクの手を暖めてくれた事を思い出して  軽い気持ちで マコ おいで と言って 同じように やってみました

心臓が 止まるかと 思いました

あまりにもの 冷たさに!

お母さんは コレを 平気な顔をして

ボクを抱きしめてくれていたんだ、、、、、、

その時 母親の大きさと言うか 深い愛情 と言うものが 理解できました

ボクを 仁仁志別に 柘植広のところへ

養子に出した 事への 積年の恨み が心の底から 氷解 する想いでした

小学校4年生の春休みに 仁仁志別 に連れて行かれて その年の 夏 7月の後半くらいに 

母親が 仁仁志別に来ました、、、、、、

続く、、、

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2024年

3月

06日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、57

躾 (しつけ) 、、、、、、

10歳まで居た 夕張では 父親も母親も 普通に 優しくて 5人兄弟の一番下 の末っ子 でしたから 甘えん坊で なんの屈託(くったく)もない 素直な 子供でした

ところが 連れてこられた 仁仁志別 では いきなり 

柘植家の長男です!

しっかりしなさい!

立派になりなさい! 

生みの親より育ての親です

柘植広を敬いなさい!、、、

と 躾 が 始まったのです、、、、、、

そうして 毎朝 起きると 正座をして

おはようございます と挨拶をさせられたのです その結果が

なんの返事も返す言葉も無く 

ただ 、、、、、、、、、、、、

コレは 辛かった です、、、、、、 涙

さらに 朝の食事の時 

おばあちゃんから 箸の持ち方 上げ下げ の一つ一つ 注意されました

先ず 味噌汁を両手に持って ひとくち

飲んでから 食事を始める事 

ご飯茶碗を 常に左手で 持っておかずをこぼさないように 添える事

おかずが全部食べる事ができない時は最初から手をつけてはいけない

おかずが 多く何品かある時 箸を持ったまま 迷ってはいけない とか

事細かに 注意されました、、、

ああ 夕張に帰りたい、、、、、、

と心の中で 何度も 思いました

口に出して 夕張に帰りたい なんて言ったら 大変です!

信義! そこに座りなさい!

と言って 1時間以上 延々と 

昔から言います 生みの親より育ての親、、、  育ての親の 恩を忘れてはいけません と説教をされますから、、、

と このように おばあちゃんの

躾 が 始まったのです 、、、

続く、、、

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2024年

3月

05日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、56

小学校4年生の春休みに 旅行に連れて行ってやると言って 騙されて 連れてこられた 仁仁志別、、、、、、

そして 今日から お前は うちの子になるんだ と言ったきり 4年間 一言も口をきかなかった 義理の父 柘植広、、、

教育係の 阿部トミ 母親の 母 、、、

何処かの農家から 養女に貰った 義理の姉 安子 、、、

この 3人との共同生が 始まりました

朝 起きると 先ず 正座をして 座ってタバコを吸っている 柘植広に 

おはようございます 

と挨拶を させられます

柘植広は じっとして 前を向いたまま

、、、、、、、、、

返事をしません!

なぜなんだろう?

不思議でしようがありませんでした

一緒に暮らした4年間 全く同じ反応でした 、、、、、、

返事もしない人に向かって 毎朝

おはようございます  と挨拶をさせられる 子供ながらの虚無感 計り知れないものが有りました 

追い打ちをかけるように おばあちゃん

生みの親より育ての親!

お前は 柘植家の長男です!

立派になりなさい!

と 何百回も言いました

何か 根本的なところが 欠けています

その柘植広 話が出来ないわけでは無かったのです

学校での 朝礼の挨拶は 先生 生徒の前で 延々と 話をするのですから、、、

子供が可愛くないのか 、、、、、、

後継として 老後の面倒を見てもらう為だけに 養子にしたのか 

謎 でした、、、

続く、、、

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2024年

3月

04日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、55

いよいよ 仁仁志別での 2年間の生活の記憶 大詰めを迎えています、、、、、、

柘植広の事 安子の事 おばあちゃんの事、、、 家族?、、、 の事を 特に 義理の父柘植広と義理の姉安子の事は ほとんど 触れていませんが 10歳の少年には とても 辛い日々

でした、、、、、、

特に 柘植広、、、

仁仁志別 小中学校の校長先生、、、

信じられないくらいの 無口の人 でした   何せ 4年間の同居生活で 

一度も 声を掛けられたり 返事をしてもらった事が 無い!のですから、、、

コレは 本当の事です!

おばあちゃんから 何百回も言われ続けた 生みの親より 育ての親、、、、、、

お前は 柘植家の長男です!

立派になりなさい!、、、、、、

とても 厳しい 躾(しつけ) が 突然のように 身に降りかかってきたのです

続く、、、

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2024年

3月

01日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、54

仁仁志別に連れて行かれて 2年経って

小学6年生 になった秋頃だったでしょうか?

修学旅行に行くと言う 小学校挙げての行事が 有りました 

行く先は 函館市 なのですが 一泊2日

の日程です。

結構な費用 お金 が掛かります、、、、、、

貧しい 開拓地の子供達、、、

そんなお金など有るわけが無いようでした、、、、、、

小学校の卒業の思い出です

先生達も なんとかして 修学旅行に連れて行きたい 想いだったのでしよう

ナント 修学旅行の前 1ヶ月くらい 勉強はお休みして 学校の裏の 雑木林の木を切り倒して 文化薪 作りが始まりました

文化薪を売って 修学旅行の費用にするのです、、、、、、

全額なのか 費用の一部だったのかは

分かりませんが 兎に角 1ヶ月くらい 

延々と 朝 学校に登校して すぐくらいに雑木林の中に入って 木を切り倒して ノコギリで 長さを揃えて 切ります、、、

途中 昼休みを挟んで 学校が終業する時間位まで 文化薪作りです

文化薪作りの方法は 以前 詳しく書きましたから 割愛しますが、、、、、、

開拓地では 学校の勉強などは そっちのけで 生活の為に生きる!

と言う事を 子供の頃から 強いられるのです!

都会の子供達とは 大違いですね、、、

ボクは一応 夕張と言う小都市を経験しているだけに この事は 本当に驚き‼️

でした

勉強はどうするんだ?

夕張の友達 達とは どんどん 離されて行くなあ、、、、、、と言う想いが 湧くのですが どうする事も出来ません

ただ 黙々と 文化薪作り をやりました、、、

そして 修学旅行!

同級生全員と先生たちで 函館の

トラピスト修道院

五稜郭

など を見学しました

この 文化薪作りの1ヶ月

心に刻み込まれました、、、

続く、、、

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2024年

2月

29日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、53

多くのものを 手作りで 原材料から作ってくれた おばあちゃん、、、

どれも とても美味しいのですが、、、、、、

蕎麦 、、、、、、

蕎麦の花 小さな白い花 、、、

季節になると 畑いっぱいに咲いていて

ソレはソレは とても美しい光景です

そして 秋になると実を付けます

小さな 黒い三角錐のような形をした

蕎麦の実  コレを すり鉢でするところから 始まります

その役目はボクでした、、、大量にやりました

蕎麦の実をすり下ろして 極 小さめの漉し器を使って 白い粉 と から に分けて 白い粉だけを 使って 蕎麦 を作っていたようでした、、、

ちなみに 大量に発生する蕎麦の実のからを使って 枕を作ってくれました

ソバガラの枕です

今では 貴重なものでしょうね

イヤ 時代遅れかもしれませんね

東京に出るようになって 知ったのですが 十割蕎麦 とか二割蕎麦とかなんとか蕎麦 とか 存在するようですね

きっと 蕎麦の粉と他の何かとの 混ぜる割合の事だと 勝手に思っていますが

おばあちゃんの作る蕎麦は そう言うと完全に 十割蕎麦 になります

おばあちゃん 一生懸命に 粉を練って

丸い棒のようなもので伸ばして 平にしています

そしてソレを 蕎麦の形に切って行くのですが おばあちゃん 体力があまりなかったようなので 薄く 細い 蕎麦の形に仕上げられなかったみたいで 

厚めで 太い 形の 蕎麦 になっていました

きっと 蕎麦の好きな大人たちは 形など気にならなくて 美味しかったのかもしれませんが 夕張にいた頃は ラーメンかそうめんしか 食べ事がない 10歳の 信義少年には 初めて食べる蕎麦 と言う物、、、

食感が ゴワゴワしていて なんだコレ? と言う感想でした、、、

おばあちゃんは 信義 美味しいから食べなさい と言うのですが ボクは あまり好きになれませんでした

いわゆる今で言う ソバガキ に近い感じの蕎麦 でしょうか?

何回か回数を重ねるたびに どんどん

蕎麦と言うものが 嫌いになって行きました、、、

おばあちゃんには 申し訳なかったのですが、、、

この時の経験が ボクが蕎麦好きにはなれなかった原因に違い有りません

ソレでも 最近は 蕎麦 美味しいと思うようになって来ました♪

コレも 懐かしい子供の頃の 仁仁志別

での 思い出です

あと もう少し 書きたい事が 残っています、、、

続く、、、

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2024年

2月

28日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、52

音楽家の方に限らず 多くの人に蕎麦 好き が 多くいらっしゃいます

今まで 友達の ミュージシャン ソレに ごく親しい仲間のようなミュージシャンの中にも いわゆる 蕎麦好き がいました 

ごくたまに 蕎麦打ちの名人と言う方もお近くに居て 我々バンドに 蕎麦を打ち 食べさせて頂いた事も何度かあるのですが 仲間のミュージシャンは美味しい!と 悲鳴の様な 感嘆の叫びをあげるのですが ボクには その美味しさが

分からない、、、、、、

でも せっかく 一生懸命に打って頂くので そうですね 美味しい と相槌を 打っていましたが、、、、、、

蕎麦は 作る人も食べる人も 蕎麦についてのウンチクを話す人が 多いのは何故でしょうか

蕎麦が 嫌いになったのは 

仁仁志別 にいた時の体験からでした

おばあちゃんは なんでも 原材料から 丁寧に 作る人でした

漬け物が 素晴らしかった事は 前にも書きましたね

夕張にいた頃は 買ってきて食べていた様な物 漬け物とか 煮豆とか ジャム とか トコロテンとか 色々、、、、、、

仁仁志別のような 開拓地では 多分皆さん 自分で 全て手作業で 作っていたのでしょう

トコロテンは テングサと言う 原材料から作ります 煮詰めて ソレを型に入れて冷やして ピュッと押し出すような道具に入れて 押し出して完成です

ソレに 適宜に 味付けをして 食べます!  夏の暑い時など 冷んやりしてとても美味しいです

ボクは 蜂蜜を入れて 甘くして食べるのが好きでした

蜂蜜は なんと 一斗缶で 買っていました!

純粋な 完全な蜂蜜です、、、

蜂さん 有難う!

その時は お世話になりました、、、

煮豆などは 目の前の畑で 採れた 

とら豆 等 を大きな 釜で 茹でて

時間を掛けて 煮ます 

コレも とても美味しいですね

それに あんこ!

小豆を大量に煮て ソレを こし袋に入れて 搾り 小豆の皮の部分を取り 中の小豆の身の部分を集めて あんこを作ります ソレに 甘味を付けたらあんこの出来上がりです、、、、、、  多分、、、

田舎しるこ と御膳汁粉 の違いは 大きい!

ボクは あんこは こし餡 でなくては

いけない! 派 です、、、、、、

さて おばあちゃんの作る 蕎麦ですが

、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

24日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、50

雨の日は 何処にも遊びに行く事が出来ないので 読み始めた 世界少年少女文学全集 、、、、、、

怪盗ルパン が あまりにも面白くて 1日に 三巻まで読んでしまいました、、、

ルパンの中に 相手役として たまに 登場してくる 名探偵シャーロックホームズ 彼を主人公にした 本も有りました 怪盗ルパンの次に 名探偵シャーロックホームズ を読み漁りました

ふと気がついて見ると 外の天気は 晴れているではないですか、、、

雨の日だからと言って 世界少年少女文学全集を読み始めたのに すっかり 物語の空想の世界に 魅了されたのでした

一気に

ガリバー旅行記

宝島

十五少年漂流記

ロビンソン漂流記

巌窟王

ロビンフッドの冒険

海底二万里

名犬クルーソー

ピーターパン

ドンキホーテ

三国志  、、、、、、、、、

のような 男の子が夢中になって読む本を 当然のように 読みあさりました

文学全集を 読む事の 素晴らしさ 想像力を鍛えると言う事を知らず知らずのうちに やっていたのかな と思います、、、、、、

それも 仁仁志別に居たからです

夕張にいた頃は 図書室や図書館など

覗いたことも 有りませんから、、、

何か 大きな力が 働いてくれていたのかもしれません、、、、、、

夕張から遠く離れた 仁仁志別 に連れてこられた 10歳の信義少年 の寂しい心を 一時的にではありますが 埋めてくれました

本を読む事の楽しさを知ったボクは

まだまだ 名作と言われる本を 読んだのでした、、、

何せ 学校には 手付かずの 立派なケースに入った本たちが 200冊くらい有ります、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

23日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、49

雨の降る日は 何処にも遊びに行く事が出来ません、、、

何もしないで じっとしていると 夕張の母親の事を すぐ 思い出してしまいます 夕張に帰りたい 、、、、、、

そんな 悲しい日を過ごしていた 10歳の少年 柘植信義君 でしたが

ある日の雨の日 何気に 小学校の図書室に入ってみました

家のドアを開けると ソコは 小学校の廊下に繋がっているのです!

家が学校デス!

通学時間  0 秒!

開拓地の学校ならではですね

何気に入った図書室に 世界少年少女文学全集 として 200冊くらいの本が ぎっしり ケースに収められていました

開拓地の同級生達は 日頃の労働で疲れていますから 誰も 本など読みません

なので 手付かずの状態で 綺麗でした

面白そうな題名の本を探して 読んでみました、、、、、、

怪盗ルパン 1 、、、

アルセーヌルパン のお話です

見事に ハマりました 

面白いのです 

10歳の少年の心を わしづかみ されたようでした、、、

自分の部屋に帰って 読んだのですが ものの2、3時間くらいで1冊読みました

また すぐに 学校まで戻って 怪盗ルパン 2  を自分の部屋に持ち込んで 読みました、、、、、、、、、

雨の日の 時間潰しの為にと思って 何気に 読んだ 世界少年少女文学全集

の一冊、、、 素晴らしいものでした

校長の息子という立場で 学校が家で 家が学校  という地の利を 最大限に活用した 出来事です

その日以来 ボクの世界少年少女文学全集 めぐりの 旅? が 始まりました

、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

22日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、48

毎日 牛乳、、、搾りたてのもの、、、が 一升瓶にいっぱい 届けられていました

多分 農家の方から 頂いていたのか

買っていたのか 良く分かりませんが

よく有る様な 低温殺菌とか なんちゃら加工 とか言う様なシロモノでは無くて ストレートに牛の お乳 デス

非常に濃厚で ソレを毎朝食事の時に

飲まされていたのですが 少し時間が経って冷めると 表面に 結構厚めの膜が出来ます。

ソレが嫌で あまり好きでは無かったのですが おばあちゃんから 必ず 飲む様に 何時も言われていました

あの時代の人は 牛乳が 身体に良いと信じていたのでしょう

本当のことは よく分かりません、、、

牛の乳を直接 2年間毎日飲んだ 経験も珍しいですね、、、

開拓部落では 牛や馬 はとても大切に飼育されます 大いなる労働力ですから

未開拓の土地を 切り開いたり 畑にする時など 大活躍します!

そんな馬や牛の お世話は 子供達の仕事です

同級生達は 毎日 馬に接していて とてもよく 馬の事を知っていました

有る冬の日 雪が1メートルくらい積もっていた時に 同級生のお家に はるばる訪ねて行った事が有りました

どんな理由で 行ったのか忘れてしまいましたが、、、

彼が 馬に乗せてくれると言うので 

裸馬に 乗りました

意外と馬の背中は高くて 地面が遠くに感じられました

手綱もなく 掴むところも有りません

初めはユックリ 歩いていたので トントンという感じで 馬の背中で上下に揺られていました

すると 馬は急に速度を早めて 軽く走り始めました 

ボクは驚いて 必死になり馬の首の辺りにある 毛を掴みました

その馬は 10メートルくらい真っ直ぐ走っていたのですが急に左に曲がったのです

ボクはその勢いで 雪の中に振り落とされてしまいました!

同級生の彼は 笑いながら近づいてきて

面白いっしょ と言って 喜んでいるのです 

どうやら そんな事は日常的な事の様でした

幸い 雪の深さがあったので ボクも 全然平気だったのですが

馬も よく見るようなサラブレッドでは有りませんし 農耕馬です

ズングリムックリしています

乗馬専用の馬でもないし、、、

知らない子供が 背中に乗るのが 嫌だったのかもしれません

その馬に ちゃんと 挨拶をして

乗せてもらうべきでした

お馬さん その節は 失礼致しましたね

ごめんなさい、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

21日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、47

ウド が大量に群生するかのように生えていました、、、、、、

わらびに至っては 稲作のお米のように

ビッシリ八畳間位の広さで 生えている場所を見つけました  わらび が有ると言う喜びよりも誰かが植えたのか?と

驚きを 覚えました、、、、、、

開拓地 と言うところは 全てにおいて 規格外 と言う 感じです

山の中を 歩き回って居た時 ある平らな場所に出ました

何やら 童話のオトギバナシに出てくるような風景が広がって居ました

フキ が生えているのですが

その大きさが 信じられないくらい 大きいのです

皆さん ご存知のように 煮物にすると美味しい あのフキ ですよ

10歳の頃の身長は 多分130〜140センチくらいかなと思うのですが

目の前のフキ達は ボクが スッポリ 隠れてしまうくらいの 大きさで しかも太さの直径は15センチくらいも有るのです

葉っぱは 直径2〜3メートルくらいの大きさです!

もう みたこともない 大きさのフキ!

喉が 乾いていたので そのフキを目の高さくらいで 切ってみたら 茎の切り口まで 水が ビッシリ入っていました 

飲んでみました

冷たくて 美味しい!

まさに 自然のめぐみ!

その時以来 山に入った時 喉が渇いたら フキの水、、、、、、を飲んでいました

本当に 珍しい経験デス

オトギバナシ みたいでしょう

最近 山花駅 の辺りを検索してみたら

開発されて 一大 温泉街の風になっていました、、、、、、

開発される前の 人が 入って居ない 未開の地に 住むと言う 稀な 経験だったのだと思います

夕張と言う ある程度 大きな街から 未開の地 仁仁志別に連れてこられた

10歳の少年 柘植信義君の 数々あった衝撃の体験 の一コマを皆さんに ご紹介していますが まだまだ 珍しい経験はございました、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

20日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、46

子供の頃 夕張にいた時も良く 山に 山菜をとりに行きました

ウド わらび ゼンマイ、、、 

当時でも 夕張では なかなか 見つける事が 難しくて それに 多くの人が季節になると山菜を採りに行くので数も少なく大変 貴重な物でした

宮崎の父親は それなりに 子供達を可愛がってくれていまして 

ボクと2歳上の兄が 採って来た ウドを一本5円?で買ってくれる事になっていたので もう 夢中になって 季節には 山へ 山菜採りに行っていました

仁仁志別 でも 当然のように 山菜をとりに行きました、、、、、、、、、

広大な大自然が すぐ目の前から広がっています

家から5分も歩けば もう 誰も居ない

ふか〜い 静寂しかない 場所に出ます

色々な 鳥の鳴き声しか 聞こえません

鳥達が鳴き止むと シーーーーーーン

と物音がしません 

自分の吐く息の音 呼吸の音だけです

そんな場所に ウドやわらびやゼンマイを採りに行くのです

もう 驚きでした!

ウドやわらびが まるで 栽培しているかのように 群れを成して 生えているのです!

ウドなどは 六畳の広さくらいのところに50センチ間隔くらいのペースで群生していました!

山に 山菜を探しに行くなんてもんじゃ有りません 

まるで 畑に収穫しに行く!

そんな感覚です!

最初に説明したように 山花と言う 町から三里(訳12キロ) 離れている 開拓地ですから 大自然の山菜とソレを採りに行く人のバランスが 有る意味 悪いから 山菜がドンドン 繁殖して行ったのですね、、、

初めの頃は もう 嬉しくて 夢中になって ウドを掘り起こして 採りました

ソレを リュックサックに詰めて 家に

自慢するかのように 持ち帰りました

しかし 柘植広や安子 達の 反応は、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

19日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、45

開拓地 仁仁志別 の同級生達のこと、、、

何せ 65年前の事なので 余り詳しくは思い出せないのですが 何点か 忘れられない事 記憶に鮮明に 焼きついている事が あります

当時は 学校給食など ありませんから

各自 お弁当を持って来ます

夕張にいた頃は 給食が有り 楽しい時間でしたが  仁仁志別 小学校では 

お昼休みのお弁当 全然 楽しくないのです、、、、、、

14人の 同級生の中で 郵便局長の息子の 健司君 と酒屋の正子さんの2人を除く 12人は 正真正銘の開拓地の子供達

で いかに開拓地の生活が大変で厳しいと言うことの表れなのですが 

その 12人の同級生達は お弁当を食べる時 皆んな 蓋で中身を隠すようにして 下を向いたまま 何やら 食べています

有る時 気になって 何気に そのお弁当箱の中見を見てみました、、、、、、

茹でたカボチャ だけでした、、、

来る日も来る日も カボチャ

有る時は 茹でた とうもろこし だけ、、、

来る日も来る日も トウモロコシ、、、

有る時は ジャガイモ だけ

来る日も来る日も ジャガイモ、、、

仁仁志別 では お米は作れませんから 

ご飯は 貴重なのですね

お金を出して買わなくてはいけない物 は 本当に 貴重で めったに 食べる事が出来ない 

お肉や 魚 もそうです、、、

自分達が作る カボチャやトウモロコシは 売るほど有る訳ですから

収穫の時が来ると 何時も そんな風 でした、、、

可哀想に と思いました

一応 ボクは 校長先生の息子なので 普通に お弁当を食べていましたが、、、

同級生達のことを考えると 自分のお弁当も 楽しくは 無かったですね

仁仁志別に居た 2年間は その事が

辛い 思い出ですね

北海道の開拓地 65年前はかなり貧しかったのですね、、、

続く、、、

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2024年

2月

16日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、44

、、、、、、畑仕事7、、、、、、

小さな可愛い芽が 5、6本 生えて来ました

有る程度まで 成長するのを 毎日 観察しました♪

農作業と言うのは 大変でしたが 

芽が成長していくのを見る事は 楽しい事でした、、、

1箇所に 5本も6本も 大根を育てる訳にはいきませんから 選別というか 間引きをする事になります

一番 勢いのある芽を 1本だけ残し あとは 捨てる事になります、、、

なんか 捨てられた子は 可哀想でした。

子供でも 自分がこんな風に捨てられたら 悲しい、、、と思いました

こんな事を考えていたら 本当の農作業は 出来ませんね、、、、、、

あくまでボクの場合は 遊びの様なものでしたから、、、

残された 一本の芽は 期待された通りに グングン成長していきます

それと 同時ぐらいに  雑草も周りに ドンドン 生えて来ます 

大根の 芽の為には 日光の当たり具合とか その他の要素が有り 雑草を引き抜いて 根の部分を上にして 乾燥させます

引き抜いてから 2、3日して 雑草を拾い集めて 捨てます、、、

拾い集めると簡単に言っていますが 幅10メートル長さ30メートルもある土地です 雑草もそれなりに 生えていました

結構大変です、、、、、、

大根 一本育てるにも この様に 人間の手を加えなければいけません。

それに 雑草は抜いても 又 しばらくすると 畑のあちこちに 生えて来ます

本当に 生命力が 豊富です、、、

だから 雑草のように力強く 育て!

と言われるのでしよね

そんな事を繰り返しているうちに

やがて 秋になり 大根の芽は 地中に 太く逞しく 大きな身を 育てます

それを 大事に スコップで傷つけないように 掘り出します

大根の 出来上がりです!

自分で 土地を 耕して 肥料(肥やし)を、撒いて (肥やしを家から畑まで運ぶのは本当に大変でした、、、) 種を植えて 途中 雑草から守ってやり 大きく育てました!

嬉しかったです、、、

家に 持ち帰り 洗って 皮を剥いて食べた時の 感触 感想 忘れられません

みずみずしくて ちょっと 甘味が少ない 梨 の様な 味 です!

コレが 仁仁志別で 10歳のボクが初めて作った 大根でした、、、、、、

自分ながら よくやった! と思います

、、、畑仕事、、、  の項 終わり

続く、、、

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2024年

2月

15日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、43

、、、、、、畑仕事6、、、、、、

肥やしを撒いてから 一週間くらい乾燥させて いよいよ種蒔きです

ボクは 大根と ジャガイモ を作ろうと決めました 

何となく でしたが、、、

先ず 畑の進む方向に対して 背を向けます

V字状に掘られた溝の両脇に盛られた土を 右足で溝に落とします

その上に 大根の種を5、6 粒落とします

そして左足で その種の上に土をかぶせます

この作業を次次と順序良く 繰り返して行きます

始めの頃は 慣れない作業で 動作も鈍く 遅いのですが 幅10メートル 長さ30メートルくらいの畑に 大根とジャガイモの種をやり終える頃には スッカリ慣れて スピーディーに

サッホイサッ サッホイサッ サッホイサッ と言う感じになります 

最初のサッが 右足で土を溝に落とし

次のホイは 種を落とし

最後のサッ が左足で溝に土を落とす

事になりますね、、、

そして 最後にスコップで V字状の溝の両側に盛り上げられた土を 全て溝に入れます 

コレで 種蒔きは完成です

ちなみに ジャガイモの種は 実際のジャガイモを半分くらいに切った物を植えました

一週間くらいすると 小さな可愛い芽が 出て来ます

大根の場合は 1箇所に 5、6粒くらいの種を蒔きますので 可愛い芽が5、6本密集する様に生えてきます、、、、、、

その時は 自然の不思議さと言うか 愛おしさと言うか そう言うものを 子供ながらにも実感しました、、、、、、

今考えると 得難い 経験だったかもしれません

その時は 必死でやっていたように 思いますが、、、

10歳の子供でしたから、、、

続く、、、

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2024年

2月

14日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、42

、、、、、、畑仕事5、、、、、、

服を着替えて さあ 又やり直しです

今までの失敗した原因を色々考えて

たどり着いた結論はこうでした

1   桶に 8分目程度 入れる

2  天秤棒の中心を担ぐ

3   歩く時は 膝の力を抜いて 上下に

   歩く

上下に歩くと言うことを 想像してみて下さい

ほいっ ほいっ ほいっ、、、 と言う感じです

さて 50メートルくらい 離れた畑には

既に V字型の溝を掘って有ります

長さ 30メートルくらい有りますから 溝が曲がらないように縄を張って

縄に沿って溝を掘って行きました

そこに 肥やしを撒いて行きます

5. 6回くらい 肥やしを運ぶ為に 家と畑を往復したでしょうか

最後の頃には 天秤棒を担ぐのも すっかり上手になって ほいほい すいすい

ほいほい すいすいと言う感じです

最初 肥やしのニオイが 臭い と思ったのですが   人間はどんな環境でも

順応出来ると言われている通り 

ニオイにも 慣れてしまいます、、、、、、

畑に肥やしを撒いたら その肥やしが乾くまで 2、3日待ちます

そうして 次は いよいよ野菜の種を植えます

種の植え方にも ノウハウ が有りました、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

13日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、41

、、、、、、畑仕事4、、、、、、、

持ち上げた時は バランス取れていたのですが 一歩二歩と歩みを進めると 

その反動でまたもや 前後の桶が大きく揺れ出したのです

それで 慌てて止まったのですが前の桶が顔に近づいてくるし 後ろの桶は背中につきそうです

天秤棒を投げ出すわけにもいかず 前の桶は大きく揺れて顔に近づいてきて

中身が顔にベチャ!

後ろの桶から 中身が背中にチャブッ!

ベチャ チャブッ ベチャ チャブッ

、、、、、、、、、

揺れがおさまった頃 天秤棒をそっと下に置き 大きく溜め息を吐いて

ああぁ、、、、、、、、、

泣きそうになっても 周りを見渡しても

誰も助けてはくれません

そもそも 誰もいません!

じっとその場に立ち尽くしていましたが

やがて 時間も過ぎて 落ち着きを取り戻し 一人で 井戸に行って バケツに水を汲み 上着とズボンを脱ぎ  先ず 顔を洗い流し 

上着とズボンにバケツいっぱいの水を ざぁーとかけて汚れを落としました

次に井戸から水を汲み バケツ3杯くらいの水を頭からかぶりました、、、、、、

肥やしを天秤棒で畑まで運ぶ事は なんと言う難しい事だったのでしょうか、、、

しかし 一度や二度の失敗で くじけてしまっては 何事も成功は有りません!

続く、、、

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2024年

2月

10日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、40

、、、、、、畑仕事3、、、、、、

天秤棒で 前後に2つの桶をバランス良く持ち上げる事は 慣れないと非常に難しいです

金魚売りのおじさんや 豆腐売りのおじさんが 昔 よくひょい ひょい ひょい と担いで歩き 注文があると その場に 下ろし そして

又 ひょいと持ち上げてすい すい すい と去って行く

そういう簡単なイメージで すっと持ち上げてみました

すると 前後のバランスが悪く 前の桶と 後ろの桶が 振り子のように 揺れ始めました

ボクは 慌てて 大勢を直そうとするのですが すればする程 振れは大きくなりました

そうこうしているうちに ナント 前後の桶から肥やしが溢れ出す始末です

あー たいへんだ〜〜!

その時の 10歳の信義少年の慌てぶりを 皆さん 想像できるでしょうか?

ニオイは臭いし、、、、、、

情けないし、、、

周囲は汚れて 気持ち悪いし、、、

泣きたいくらいでした

しかし こんな事で泣いても誰も助けてはくれません

何とか 前後に暴れる桶を鎮め その場に下ろして やり直しです

散らばった 肥やしをスコップで集めて近くに小さな穴を掘り 一先ずそこへ避難させました

失敗した原因を 信義少年は 冷静になって 考えてみました

1     桶の容量 いっぱいまで 肥やしを入

   れすぎた

2      天秤棒を担ぐ時 真ん中の位置を

   確認せずに 力任せに持ち上げた

この 2つが 主なものでした、、、、、、

よし! 次は上手くやるぞ!

うまい具合に 桶からだいぶこぼれたので 丁度良い感じです

天秤棒の真ん中の位置を確かめ すうっと 腰を下ろして そうっと立ち上がりました

よし!いいぞ!

いい感じ、、、

一歩 二歩 と歩みを進めました

      すると、、、、、、、、、!

続く、、、

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2024年

2月

09日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、39

、、、畑仕事 2、、、

天然の肥料  つまり 肥やし ですね

自分の家の便所の外の蓋を開けて 杓子で桶に汲みます

蓋を開けると もう いや〜な 臭いがします

杓子を恐る恐る 便壺に入れます

外に 溢れないように 細心の注意を払って 桶に そうっと入れます、、、、、、

今 考えてみると 10歳の子供のする事とは 思えないのです

何故 イヤだ! こんな事したくない!

 と 言わなかったのだろうかと振り返って考えてみました

小学校4年生の 春休み 旅行に連れて行ってやると騙されて

夕張から果てしなく遠い(当時 列車で12〜3時間とトロッコで3時間) 仁仁志別に連れて来られて(拉致のようなもの、、、)

親も友達もいない場所に放り出されたのです

10歳の子供にはその環境から 自分の元 住んでいた環境に戻れるとはとても思えなかったのでしょう

だから 言われた通りに 日々の生活を全うするしかなかったのだと思います、、、

慎重に 2つの桶に肥やしを入れ 

昔よく見た金魚売りのおじさんのように 天秤棒に2つの桶を吊るし 肩に担いで畑まで 持って行こうと立ちあがろうとしたら、、、、、、、、、!

続く、、、

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2024年

2月

08日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、38

、、、、、、畑仕事、、、、、、

ある日 おばあちゃんは 安子が耕した幅10メートル 長さ30メートルくらいの広さの畑を 指差して

信義 コレを おまえの畑にして 何でも好きな物を作りなさい

と言いました

それまでにも 家の周りには 沢山の種類の野菜が栽培されていました

全て 安子が作っていました

彼女は 農家の出身の人なので朝から晩まで 野良仕事 本当に良く働いていました

かぼちゃ とうもろこし じゃがいも(メークイン 男爵)   ほうれん草 大根 ごぼう 長ネギ きゅうり ナス トマト キャベツ 白菜 長芋 小豆 とら豆 そら豆 大豆 、、、、、、

コレらのものが 季節ごとに収穫されて食卓に上がりました

さて 僕は 何を作ろうかな、、、、、、

まず 畑を耕しました

所々 野草が 生えています

スコップで掘り起こして 根を剥き出しにして太陽に当てます

2〜3日 経ってから 太陽に当てられて 乾燥した根を 熊手のようなものでかき集めます

それから もう一度 スコップで 畑を耕し直します

簡単に言っていますが 幅10メートル 長さ30メートルの広さは 10歳の子供には

大変でした、、、、、、

イヤ でも おばあちゃんから言われた事は 必ずやらなくてはいけなかったのです 

何かと言うと おまえは 柘植家の長男です! と言われるのです

自分から 望んだ訳でも無いのに、、、、、、

今思うと 何故 抵抗と言うか 反発しなかったのか 不思議です、、、、、、

さて 畑仕事ですが

次に 畑に 肥料を撒きます、、、

あの頃は 肥料は 天然の物でした

天然って言うのは つまり、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

07日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、37

、、、、、、いわれなき烙印 2、、、、、、、、、

おばあちゃんは その青二才に 

何故 信義に 陰陽なたがあるのかを聞いたところ 青二才は こう説明したそうです

課外授業で 農作業や花壇造りの労働をさせると 私がみている時は一生懸命なのですが みていない時は 休んでいて私に気がつくと又 一生懸命にやり始めます

だから 陰陽なた があると私は思いました、、、

おばあちゃんから その説明を聞いた時

僕は 納得しました

ボクは 校長の息子なんだから 頑張らなくてはいけない

特に 先生がみているから 良いところ見せたい、、、

そして 疲れて 休みたい、、、

あ また見てる!

頑張らなくちゃ、、、、、、

と 疲れた身体に鞭打つように働いたのです 、、、、、、

そんな気持ちでした

数ヶ月前までは 都会育ちの単純な 明るい子供でした

陰陽なたなど ある筈が有りません

判断の難しいところなのかも知れませんが  ポイントは 先生が見ていないから働かない、、、 では無くて 疲れたから休みたい、、、と言うところなのです

周りの 開拓地の同級生達は マイペースで 黙々と 作業を続けている中にあって ひときわ 目立つ存在だったのでしょう 生まれ育ちの 体力が違います

そんなところは まだ大学出たばかりの青二才には 汲み取れなかったのでしょうね 

考えてみれば 教育大学を卒業した 青年が あんな 開拓地の小学校に赴任してくる事事態が 透けて見えますね、、、

仁仁志別小学校には 教育委員会 がある訳でも無く 授業の遅れも審査される事もなく 青二才のやりたい放題、、、

そんな所の小学校で ボクは5年6年生を過ごしたのでした

そんな 青二才に 

陰陽なたがあり 二重人格です 、、、、、、

僕はこの文を 65年後の 今 書いています

つまり 65年間 僕の 魂に 刻み込まれた 烙印です

しかし 青二才にも 言いたい事 あるでしょう

話は 両者の言い分を聞いて 判断するものです

僕は 以後の人生 誰も見ていなくても

練習を繰り返して 今日 ジャズギターリスト として生きています

それは 事実です、、、、、、

、、、、、、言われなき烙印 の項 終わり、、、

続く、、、

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2024年

2月

06日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、36

、、、、、、、、、言われなき烙印、、、、、、、、、

仁仁志別小学校では複式学級のせいか

それとも 教育大学を出たばかりの担任の青二才の好みのせいか

教室から出て 校庭での課外授業をよくやらされました

4年5年6年生が一クラスですから 全員外に出て それぞれの花壇を作ったり それぞれの畑を作って野菜などを植えました

課外授業と言っても 中身は単なる農作業の連続です

都会の夕張育ちの信義少年には農作業の経験は有りませんでした

そして 体力も 開拓地の他の子に較べれば充分では 有りません

それでも 自分にとっては目新しい経験なので 面白くて 楽しくて 一生懸命頑張りました

特に 青二才の担任が 傍に来たり見ている時には 特に力を入れて頑張ったものでした

でも 体力が無いから 直ぐ疲れて休み 回復すると又 頑張ると言う 繰り返しでした、、、、、、

課外授業と言っても 農作業の連続でした  

夕張の都会育ちの信義少年と開拓地の少年達では 農作業に対する 経験 認識に於いて 大きな差 が有りました

信義少年は 少年なりに 一生懸命頑張り 疲れては休み 又 回復して頑張る と言う事を自分の判断で行っていました

ふと 目を転じて 他の同級生達の事を考えてみると 彼らは 自分のペースで黙々と授業時間の45分間を消化していた様に思います

その様な状況を客観的に見ると 思い当たる事も無い訳ではないのですが、、、、、、

一学期が終わり 通信簿の行動の欄に 

陰 陽なたがあり 二重人格です

と言うような事が書いてありました

おばあちゃんから 酷い 叱責を受けました、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

05日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、35

漬け物作りは日中 日が照っている時にムロの中で行われます

入り口の蓋を外して 太陽の光を中に差し込ませます

深さ1メートルの所に 2、3段の梯子を設置します

先ず 空の一斗樽、漬物石 (かなり重い)

漬け物の材料 これらをムロの中に運び入れます

おばあちゃんは ムロの中に ゴザと座布団を敷いて座り 大きなまな板で大根やカブなどを切りそれらを一斗樽に敷き詰めては塩を振り その上に又 敷き詰めて塩を振り時には麹を入れたりしていたように思います

レシピなどは無く 自分の長年の経験と勘だけで 塩や身欠きニシン 麹 酒カスの量を決めていました 

樽一杯になると 蓋をしてその上に漬物石を乗せます

それが ボクの役目でした

最初の時は 重くて大変だなぁ イヤだなあ、、、、、、

と思っていましたが 2年目からは 又 あの美味しい漬け物が食べられると思うと 勇気が湧いてきて重い漬物石もさほど苦には感じなくなりました

ここで ボクの大好きだった鰊漬けについて、、、、、、

大根(干した物)を 回し切りにします

キャベツを7センチ角くらいに ざっくり乱切りにします

身欠きニシンを5センチ幅くらいに切ります

それらを 大根 4   キャベツ3  ニシン3

くらいの割合で混ぜて詰めていきます

詰めながら 塩と麹を おばあちゃんの勘で振っていきます

その作業を繰り返して 一斗樽一杯にします

そして樽に蓋をして漬物石を載せます

後は 自然の不思議な熟成の力によって 2〜3週間めくらいから 食べられるようになります

これは 僕の勘ですが 

鰊の量が少ないと 大根やキャベツへの 味の染み込み方が不十分で 濃厚な鰊漬けの味が出ないように思います

なぜなら 東京に住むようになり 何度かそのような味の鰊漬けを食べた事が有るからです

例えば 道産子料理専門店 のような所で、、、、、、

そんな時は やっぱり この店も ダメだったなぁ と残念な想いをしましたね、、、

おばあちゃんの鰊漬けは 本当に美味しかった、、、、、、

人間の長年の経験と勘 これは本当に 素晴らしいもの だと思います

ボクに対する 教育としつけには 厳しい おばあちゃんでしたが あの深い味わいの漬け物を 食べさせてくれた事には 今でも 心の底から 感謝しています、、、、、、

有難う! おばあちゃん、、、、、、

続く、、、

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2024年

2月

02日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、34

おばあちゃんの漬ける漬け物は、、、

10歳の少年が それまでに食べたことがないような 深い味わいを持った物でした

今 生きていたら 間違いなく 漬け物名人として あらゆる所に 引っ張り出されていたでしょう、、、

それほどにまで 凄い漬け物でした

種類としては

1    鰊漬け(大根、キャベツ、身欠きニシ

     ン、麹、、、)

2 大根のべったら漬け

3    沢庵漬け

4    白菜の塩漬け

5   かぶの麹漬け

6    ナスの塩漬け

7    きゅうりの塩漬け

8    赤かぶの千枚漬け

9    茄子ときゅうりの奈良漬

10    ハタハタの麹漬け

11    キャベツの挟み漬け 、、、、、、など

これらを 全て一斗樽 一個か二個 漬けます

ボクはこの中では 鰊漬けと べったら漬けと 茄子ときゅうりの奈良漬 が特に 大好きでした

11月くらいから次の年の4月くらいまでが

冬の季節、、、、、、

その間の来客には お茶と漬け物で  もてなしをします

開拓地 仁仁志別の冬は寒く 厳しいながらも 暖房の良く効いた部屋で 

お茶と鰊漬け、、、、、、

子供ながらも一時の楽しい思い出でした

今時 東京では 本物の鰊漬けなど 食べられませんね、、、

春日部で 鰊漬け 食べさせてくれる所

あるのでしょうか?

もし 有るのなら 是非 教えて頂きたいのですが、、、

来週の月曜日からは おばあちゃんの漬け物の漬け方の手順を記憶が残っている範囲で説明しましょう、、、

続く、、、

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2024年

2月

01日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、33

6畳のスペースの4分の3が 2メートルまで掘られ 

4分の1が 1メートルまで 掘られていると言うのが 今までの状況です

さて ここからが 大変だったと言ったのですが それは 

2メートルの深さの真ん中辺りから 外へ土を投げ捨てるのは10歳の少年には 相当の力が必要だったのです

2回に一回くらいは失敗して捨てようと思った土が 又穴の中に落ちてきます

クヤシイデス!、、、、、、

ソコで 信義少年は 考えました

この状況を上手くクリアーする為には

どうしたら良いのか、、、、、、 と言うような事を

6畳のスペースの4分の1の部分 まだ 1メートルしか掘っていない部分に 3段くらいの 小さな階段を作りました

それ以外の掘った土は その階段を登って 1メートルの高さから 外へ投げ捨てたのです

手間暇は余計にかかりましたが 確実に穴の中の土を全部 外へ出しました

アンシンシテクダサイ

履いています では無くて

外に出しました!

これで 一応 穴掘りは完成です

10歳の少年にしては 良くやりました

皆さん 褒めてやって下さい!

ムロの蓋を作った記憶が無いので 多分 蓋と 裸電球は 安子か 他の人がやってくれたんだと思います

ムロ が完成しました、、、、、、

その 翌日くらいから直ぐ おばあちゃんの漬け物作りの手伝いです

コレも 結構大変で 今でも 記憶に残っています、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

31日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、32

ムロは家に近い所に作る事に決めました

先ず 6畳分の枠を決めます

そして スコップひとつ分の深さで均等に掘ります

家の近所の土は木の根も張っていなく石も無く 掘りやすかったです

深さ 1メートルくらいまで 一気に均等に掘り進んで行きます

それから 約半分のスペース(3畳分くらい)をさらに1メートルくらい掘ります

掘った土は 残り半分の まだ 1メートルしか掘っていない部分に 一時的に置きます

ある程度 溜まったらその土を地表まで投げ捨てます

図に書くと 分かりやすいのですが、、、

6畳の広さの半分が 2メートルまで掘られて 半分が1メートルしか 掘られていない状況です

まだ 1メートルしか掘っていない 残り半分の半分を又 掘ります

そして掘った土も同じように 半分の部分に一時的に置きます

そして溜まったら それらを地表に投げ捨てます

この方法は 自分なりに考えたものでした

今 思っても なかなか良い方法だと思いますが どうでしょうか?

問題はここからです

ここからが大変だったのです、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

30日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、31

ムロ を作りなさいとおばあちゃんは言いました

ボクはムロと言うものが どういうものか知りません

おばあちゃんの説明によると こうです、、、

一冬を越す為にこれから一斗樽10個くらいのたくさんの漬け物を漬けます

それに ジャガイモや 残った白菜、キャベツ、大根、にんじん、カボチャ きゅうりなどを保存する場所が必要です

広さは 6畳間くらい 深さ

2メートル強の穴を掘りなさい

そして 穴は 冬になって雪が入らないように蓋を作って塞ぐのです

蓋をすると穴の中は暗いから 穴の真ん中上部に裸電球を一個付けます

深さ2メートルもあるから 出入りに危険なので ハシゴを設置します

穴の蓋の構造ですが 出入りする所(1メートル四方くらい) に入り口用の蓋をします

コレが ムロ です

地表に雪が積もっていても 地面の中は意外に寒くありません

冬の北海道では 冷蔵庫は食物を凍らせない為に使われます

ムロは 天然の冷蔵庫でしょうか、、、、、、

先人の素晴らしい知恵 だと思います

おばあちゃんは 何でもかんでも 安子に頼るわけにはいかない

だから 信義 おまえは 小さな子供だが 柘植家の跡取りとして家を助けなければいけない、、、、、、

と言いました

しかし ワタシは 無理やり 夕張から

開拓地のような 所に 連れて来られた

10歳の少年 だったのです、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

29日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、30

10月に入り そろそろ厳しい冬の足音が

忍び寄ろうとしていた ある日、、、

おばあちゃんが言いました

信義 こっちに来なさい

ボクはいつもの様に おばあちゃんの前に近寄り 正座をしました

すると おばあちゃんは 静かな声でこう言いました

信義 ムロ を作りなさい

ええ! むろって何?、、、、、、

夕張の都会育ちの少年には ムロ って聞いた事も有りませんでした、、、

皆さん ムロ って わかりますか?

続く、、、

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2024年

1月

26日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、29

ボクには 秘密の場所が あったのです

深いV字状になっている谷 がボクの秘密の場所、、、、、、

今となっては どの辺にあったのかは 不明なのですが 家からさほど遠くない所 3〜40分も行った所にあったように記憶しています

V字状の片方の山側から谷底へ向かって真っ直ぐに滑って降りて行きます

滑り降りて 4〜5メートル行って向こう側の山に向かって上ります

山の真ん中辺くらいで失速しますから 方向転換して下まで降ります

今度は最初に降りてきた山に向かって

降りてきた時についたスキーの跡を横登りで慣らしながら 頂上まで上ります

(頂上と言っても100メートル無いくらいの小さな山なのですが、、、)

そして又 最初と同じように前の山に向かって滑って行きます

2度目は 新雪と言っても 一度踏み固めているので 前回よりスピードが出ます

最初に滑った時と同じ跡を通って行きますからさっきよりももっと上の方まで登る事が出来ます

そして 最初の時と同じように 反転して谷底まで滑り降ります

今度は 反対側のまだ慣らしていない山をさっきと同じように新雪を横登りで 踏み固めて頂上まで上ります

あー 頂上まで登ったぞ!

(と言っても100メートルくらいの小さな山ですが)

周りを見渡すと 雪! 雪! 雪!

綿菓子のように柔らかいこんもり こんもり とした雪!

   シーーーン、、、、、、、、、、、、

なんたって周りには 誰もいないのですから、、、、、、

大体 ボクが遊ぶ時はほとんど 何時も1人でしたから 自分の動きを止めて 周囲を見渡すと 大自然の沈黙と静寂 を身体いっぱいに感じます

今となっては 何事にも代え難い貴重な体験でした

さて 両方の山を踏み固めた後は もう 滑るのみです

頂上から滑り降りて 向こうの山の頂上付近まで行って方向転換をして 今来た山に向かって登るように滑って行きます

そして又 方向転換して 今来た山へ向かって登るように滑って行きます

つまり V字状のスロープを振り子のように 何度も行ったり来たりするのです

大体 5〜6回くらいで谷底付近で失速します

そうすると 又 頂上まで横登りで行って さっきと同じように滑り降ります

この方法が 10歳の時に自分で考えついた 山スキーの遊び方でした

一日中 飽きるまで 滑っていた事を

今 懐かしく思い起こしています、、、

こうして 遊びに夢中になっている時だけが お母さんに会いたい! 夕張に帰りたい!と言う 思いを 忘れる事ができるからでした、、、、、、

、、、、、、、、、スキー遊びの項 終わり、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

25日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、28

雪が降り続いた次の日は川の氷も雪に埋もれてしまいます

そんな時は スキー があるさ!

と ばかりに スキーを履いて山に登って行きます

仁仁志別には スキー場なんて言うシャレたものは有りません

家の玄関で スキーを履きます

スキー靴というような物も無く ゴム長靴で輪をかかとにはめて前で金具を倒して締める構造になっていました

ズボンの裾は長靴の上に出してその部分をレッグウォーマーのような物でカバーします

もちろんレッグウォーマーなんていう洒落た代物は有りません

昔 サラリーマンが 仕事中に 袖が汚れないように保護していた 黒いカバー

あんな様な物です

両手には 毛糸の手袋をはめて ストックを握り さあ 出発です

家を出て 4〜50メートルも行くと裏山です、、、、、、

先ず 裏山を斜めにジグザグに2〜30分登って行きます

上がりきって 一気に向こう側へ 滑って行きます  スキー板は 右足を15センチくらい前に出して揃えます

重心をちょっと後ろに落として膝を曲げ ビューン!

とても良い気持ちです

雪は 昨日まで降り続いた 新雪です!

前に降って積もった雪が固まった上にサラサラの粉砂糖の様な雪が4〜50センチくらい積もっています

ふうっと息を吹きかけたらサーッと飛び散ってしまう様な軽さですから

スキーで滑り降りて行くと 新雪が四方八方に舞い上がります

とても 美しい情景でした

さあ コレからが 本番です、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

25日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、27

そうだ! このまま下って行ったらどうなるんだろう、、、、、、

よし! 行ってみよう!

物凄い冒険です

何故なら もしも 氷が割れていたりして 川に落ちたら 確実に死ぬ事になりますから、、、、、、

以前にも書きましたが 仁仁志別は 町に近い方から 下仁仁志別 仁仁志別 上仁仁志別 となっています

僕が 住んでいたのは 仁仁志別で 

正確な住所の表記は 

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別字仁仁志別  となります

仁仁志別から 下仁仁志別へ向かって川を下る事になります

下流に行くに従い 蛇行も少なくなり 川幅も広くなっていきます

天然のリンクとしては 直線の状態が長くて 非常に滑り易くなります

しかし 未知の体験なので あまりスピードを出すわけにはいきません

恐る恐る ユックリ ユックリ滑って行きます

そうこうしているうちに 恐怖感も無くなり どんどん調子に乗って滑って行きました

すると 視界の先に あ! 氷が割れている!

心臓が 止まりそうでした

急いで 直角に曲がり 岸辺の雪の中に乗り上げました!

コレがあるから この遊びは やっちゃいけないって言われていたんだ、、、、、、

急に恐ろしくなり 陸に上がり 靴に履き替えて 家まで トボトボ と 歩いて帰りました

1人で帰る仁仁志別の道は スケート遊びの興奮も冷めて 寒くて 寂しい 気持ちでした

夕張に帰りたい、、、、、、

ある冬の日の出来事でした

、、、、、、スケート遊びの頃 終わり、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

23日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、26

この遊びの面白いのはこれからです

身体を反転させて川下に向かって滑って行きます

スケートをやった事のある人なら 分かると思うのですが 

スケートはいつまでも漕ぎ続けなければ前に進みません

しかし この氷上の川下りは 一度漕ぐと次に止まるまで漕ぐ必要が有りません

スキーで斜面を滑降する様に 身を屈めて滑って行きます

周りには誰も居ません

見渡す限り 雪景色 一面 銀世界です

そして 天然の曲がりくねった リンク

なんと言う 楽しい遊び!

直線の所でスピードが増し カーブの所で少しブレーキをかけ 又 真っ直ぐの所でスピードに乗る

コレの繰り返しです

1時間程掛けて 上流のある地点まで昇っても 下りは 10分か15分位で終わってしまいます

又 上流に向かって上って行きます

2度目には最初の地点よりも ずっと上まで上がります

そして又 下ります!

氷が割れて居ないのを 確認済みですから 安心して遊ぶ事が出来ます

何度も何度も 日が暮れるまで 1人っきりで遊びました。

そんな時は 夕張に帰りたい 母に逢いたい と言う 寂しさや哀しみも忘れる事が出来たのです、、、、、、

下りの時 普通に滑るのに飽きると ベースボールのように 頭から スライディングしたり 時には 両足を持ち上げて お尻で滑ったり、、、

10メートルや20メートルは平気でそのままの形で 滑って行きます

天然の氷は 水気を含んでいませんから 服が濡れたり しませんし冷たくも有りません

そうやって 上流に上り 下流に向かって滑るのを繰り返して遊んでいるうちに ソレにも飽きて 

そうだ! このままずうっと 下ってみたら どうなるんだろう?、、、、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

22日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、25

スケート遊びですが、、、、、、

5〜6人集まる時は アイスホッケーに興じますが 誰も遊んでくれない時も 良くあります

そんな時は 1人で 凍って居る川下りをします!

真冬で 川の氷は 20センチ位の厚さになりますが 万が一 氷が張っていない場所があると大変ですので  最初は用心しながら 川の上流へ上流へと滑って行きます

川 と言うのは 高い所から低い所へ流れるようになっていますから 上流へ滑っていく時は結構力が要ります

そして 適当な地点まで行ってソコから

もといた所まで 下ります、、、

この遊びは 非常に危険な一面も有りまして 1箇所でも 氷が張って居なくて

水の中に落ちたとしますと 浮き上がる事が出来ません

頭の上はずうっと氷が張っているし(それも20センチの厚さで)氷の下の水は川下へ流れているので穴の空いて居た場所まで泳いで戻るには相当な 泳力と体力が要ります

そのような事故で死んだ人が居ると言う話も聞いておりました、、、、、、

用心しながら上流へ上流へと氷の状態を確認しながら滑って行きます

この遊びが面白いのは コレからです

身体を反転させて 下って行きます、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

19日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、24

            厳しい冬、、、、、、

       厳しい寒さ

と 言いましたが 辛い事ばかりでは無く 楽しい事も ありました

冬には 大自然相手の スキー スケート遊びがあります

スケートの場合は こうです、、、

秋まで ヤマベ釣りを 楽しんだ川も 冬 12月を過ぎる頃になると 厚さ20センチ位の氷で埋め尽くされます

20センチくらいの氷が張ると 子供10人くらい乗ってもびくともしません

冬になると 開拓部落の農家の仕事も少なくなり近所(と言ってもかなり離れているのですが、、、)の郵便局の健司君や 

一軒しかない商店の松井君やら 5〜6人でアイスホッケーに夢中になりました

川幅5〜6メートル 長さ15〜6メートルくらいの場所を選んでコートにします

両方のゴールは枯れ木で枠を作って設置します

氷の状態は マイナス34度にもなるくらいですから 完璧です

表面がツルツルして それは それは とてもキレイでした

アイスホッケーに使うスティックは その辺に生えていた木を 秋のうちに 切って置いて保管しておきます

ボールは枯れ木の破片です

こう言う遊び方が 当時の開拓部落の子供達にも受け継がれた伝統だったのでしょう

時間を忘れるほどに楽しい遊びでした

  大自然真っ只中です、、、、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

18日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、23

何故 安子の妹が 僕に執拗に 夕張に帰りたいと言わせたのか、、、

安子は 僕が拉致される様に 養子にされる6〜7年前に 柘植広の赴任先の農家から養女に来たものと思われます(一度も説明を受けたことが無いので、、、)

彼女は 自分一人で ゆくゆくは 自分が柘植家の跡を継ぐつもりでいたのでしょう

そこへ 長男として阿部トミとも血縁のある 男の子が養子に来た事に対する 憤り があったものと思われます

そう言う諸々の想いが 安子の妹にも伝わっていたのでしよう

この背景には当時の一般的な考え方 家の跡取り と言う問題が大きく横たわっているのです

安子は僕の記憶では 一日中良く働いていました

厳寒の中 朝早く起きて 火を起こし 水を汲み 食事を作り 掃除洗濯とじっとしている時が無かったように思います

今まで こんなに働いて来たのに なんで信義がくるのよ、、、、、、

夕張に帰ればいいのに、、、

そう思っていたのでは ないでしょうか、、、

仲良く二人で話したという記憶が無いのです

柘植広に至っては 4年間で僕と 一度も!! 会話した事がありません

無口な人は 存在しますがあれ程の人は今まで見た事が有りません

朝起きて 正座をして おはようございます と挨拶をさせられます

柘植広は [、、、、、、]

夜寝る時も 正座をしておやすみなさい

と挨拶をさせられます

柘植広は  [、、、、、、]

この様な 生活の中で 

生みの親より育ての親! と言われて なつこう と思っても  10歳の少年には とても無理な事でした、、、、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

17日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、22

夕張に帰りたい、、、、、、

常日頃 おばあちゃんから

生みの親より育ての親 

人間は育ててくれた親の恩を忘れてはいけません と

一方的に 言われ続けていました

子供心にも 夕張に帰りたい なんて

言ってはいけないと思っていました

ある日 安子の実家の妹 (18歳くらい)

が 遊びに来た時の事です、、、

僕の部屋に入って来た安子の妹は 言いました

信義君 夕張に帰りたくない?

ううん、 帰りたくないよ

本当? ほんとは帰りたいんでしょ?

帰りたくないよ、、、

誰にも言わないから本当の事言ってごらん

と何度も優しそうに言いました

この人は優しい人なんだ

僕の味方かも知れない、、、

そう思いました

身構えていた気持ちも解けて ポツリ

と 小さな声で

うん かえりたい、、、、、、

と言って涙ぐみました

すると 彼女は部屋から出て行きました

直ぐに おばあちゃんに 呼ばれました

信義! こっちに来なさい!

おばあちゃんの所に行くと ここに座りなさい!

おばあちゃんの前に 正座すると

いつもの低い声で言いました

信義!夕張に帰りたいと言ったそうだね

生みの親より育ての親!

何度言ったら わかるのですか!

人間として 裏切りを受けたと感じた

初めての経験でした、、、、、、

わずか10歳の少年なのに、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

16日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、21

、、、、、、開墾、、、、、、 ④

直径20センチ位の切り株を片付けるのに

およそ1日掛かりました

直径60センチ位になると 3〜4日はらくに掛かります

最初の一本の木を切り倒してから 

数ヶ月、、、、、、

雪もチラホラ降る頃になりました

切り株も 何十株と残っていましたが

冬の季節が 到来してしまいました

開墾作業は 中断です

冬の仁仁志別は 雪が 2〜3メートル積もり 川の氷は 厚さ20センチ位にも

なります

それは それは 厳しい寒さが訪れます

ある冬の朝 起きてみると 寒暖計はマイナス 34度! を示していた事も有りました

夕張にいた時とは 比べものにならない程の寒さです

寒さが 厳しくなるにつれ 心の寂しさも 増すものだということを知りました

夕張に 帰りたい、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

12日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、20

、、、、、、開墾、、、、、、   ③

振り返ると雑木が群生しています、、、

しかし コツコツ一本一本 切り倒していくしか 道 は有りません

畑にする予定の広さは 30メートル✖️10メートルくらい、、、、、、

全部で70〜80本位の雑木 日数にして

40数日 昼間は学校に行っているから もっと日数はかかったように思います

次の作業は 70数個の残った切り株を掘り起こす事です

直径20センチ位の木で 根 は3〜4メートルくらい広がっていると思われます

先ず 切り株の周り2メートルくらいを

深さ1メートル迄 スコップで掘ります

掘ると言っても簡単には掘れません

何故なら 四方に根が張っている上に 切り株に近い部分は根も太いため スコップが入っていきません

作業の順番を分かりやすくまとめると、、、

1   根をある程度露出させる

2   切り株に近い方の根を ノコギリで

       切る

3   切った所から 2メートルくらい先の

   部分を露出させてマサカリで切る

  が 太くて手に負えなければ 

   ノコギリで切る

  、、、、、、こうなります

コレを 四方八方に拡がっている根のひとつひとつに行います

正に 大地との闘いです!

夕張に居たら今頃は 友達と楽しく遊んでたのに と 思うと とめどもなく

涙 が溢れてきました、、、、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

11日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、19

、、、、、、開墾、、、、、、  2

取り敢えず 木を切らなくちゃ何も始まらない、、、 と言うか 始める事が出来ない

地方によって 違うでしょうが仁仁志別辺りの 雑木林は 大体一坪に一本位の割合で 木が生えていたように思います

直径は 20センチから60センチくらい

様々 高さは 3メートルから7. 8.メートルくらい

木の種類は 楢 ぶな その他もろもろ雑多、、、

ゆえに 雑木林と言います

それに対して 植林された林は 一つの種類に統一されており 例えば 赤松やトド松 などです

当時は 学校植林コンクールと言うのがありまして 柘植広は 毎年 仁仁志別において 全国でも 有数の成績を修めていました

あれから65年経っていますから 当時植えた松の林は さぞかし立派に成育していると思われます

僕も 松の植林に 随分行きました、、、

さて 雑木林ですが 

先ず ノコギリで 地表 30センチ位の処を切ります

直径20センチの木だと 約 15.6分で切り倒す事ができます

その次に 太い枝はノコギリで 細い枝はナタで落とします 

切り倒した 一本の太い木を約30センチ位の長さに揃えます

次に その 30センチの長さの丸太を今 切り倒したばかりの 木の切り株に立ててマサカリで4分割します

それらを 直径50センチ位の 針金の輪

に詰めていきます

その50センチくらいの針金の輪に薪を

詰める作業がまた 慣れないと難しいのです

10年後に 経験する事になる チリ紙交換で集めた新聞を60キロ位の束に纏める作業と同程度の難易度でしょうか、、、、、、

薪の場合は 針金の輪を 地面に置いて

円の外側から埋めていきます

針金にあたる部分は 薪の丸い部分(表面)で揃えます そして 中に残りの薪を詰めていって 針金の輪と薪のバランスを整えます

この後が 難しいのですが その輪を持ち上げても 薪が崩れ落ちないように 薪を みっしり と詰める必要があります

適当な太さに 薪を切って調整して その輪の中へ 最後の1. 2.本をマサカリの頭の方でコンコンコンと優しく叩いて入れます その時の力加減が 難しい!

強すぎると 針金がブチっ切れて 最初からやり直しです

その加減を覚えるまでが 大変です

完成した物を 文化薪 と呼び 町へ持って行って売ることも出来ますが 柘植の家では 冬の燃料にしていました

やり方を 一応 安子が 説明してくれましたが 初日から 全部自分一人きりで始めた為 随分時間がかかりました

しかし 慣れないことも ひとつひとつ 

コツコツと忍耐強く 続けるといつしか

上手になるものなのです

最初の一本の木を切り倒して 文化薪にする迄 半日くらいはかかったでしょうか、、、、、、

振り返ると 雑木林が立ちはだかっています

ああ、大変だなぁ、、、、、、、、、

10歳の 都会育ちの少年が やることでしょうか、、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

10日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、18

、、、、、、、、、開墾、、、、、、、、、

ある日 おばあちゃんから 

あの 雑木林を畑にしなさい と言われました

ええ! 何言ってんの〜〜?

様子を伺っていると どうやら本気のようです

おばあちゃんがこう言う様子の時は いくら抵抗してもダメな事は既に学習済みでした

覚悟を決めて その雑木林を見ると 

横幅 30メートルくらい

奥行き 10メートル位の 大して広くはない土地でした

しかし 夕張の小都会育ちの少年には 雑木林を畑にする事がどれだけ大変な事

か理解出来ていませんでした

先ず 何から手を付けたら良いのか自分なりに考えてみました

①   木を切り倒す

②   草を刈る

③   地面を掘り起こす

ここまで考えて それから先のことはまた後で 考える事にしました

取り敢えず 木を切らなくちゃ、、、、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

09日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、17

65年前の 川釣りの思い出として もう一つ これも 書かないわけにはいかないでしょう

それは 幻の魚と言われている イトウ

の事です、、、、、、

僕は 一回 釣った事が有ります

体調は約80センチ 体表の模様は イワナ に良く似ています

先日 書いたように その昔 仁仁志別の開拓部落には 秋になると 川に 棒を立ててもしばらくは 倒れなかったと言うくらい 毎年 鮭 が群れを成して大量に上って来たと言われていました

僕も何度か 数尾の鮭を見た事が有りまして その鮭に 数十匹のヤマベが群がって後を追っている光景は壮絶でした!

このように 当時の仁仁志別は 都会の喧騒とはかけ離れた 大自然の真っ只中の開拓部落でした

都会では 幻の魚と言われていた イトウの一匹や二匹 いたところで 何の不思議も有りません

いつもは 15センチから20センチ位のヤマベを釣っている竿には さすがに80センチ位ののイトウを釣り上げるには無理があったようでした

やっとの思いで 手元に引き寄せて安心した途端に スルッと 手から滑り落ちるように川へ転げ落ちて行きました、、、

逃した魚は大きい、、、、、、

良く言われる言葉通りです

見たことのない魚だったので 家に帰って図鑑で調べてみると イトウ だったのです、、、、、、

大人に成って 都会に出るようになり たまに 渓流釣りの話しをニュースで見たり 人から聞いたりする事が有りますが そんな時何時も 子供の頃 大自然の中に居て ヤマベやイトウを釣っていた情景が思い出されます

自分にとっては 全く 当たり前の経験だったのですが 実は 物凄く貴重で稀有な経験だったんだなぁ、、、、、、と言う

思いに駆られます

人によっては珍しいものが 他の人には

珍しく無かったり 人間社会と言うのは

多種多様な経験をした人々の集合体なんだなぁ、、、、、、

自分と違う人の つまり 他人の経験とか 考えに幾ばくかの敬意を払って接しなければいけない と言う事が 川釣りを通して学んだ事です、、、

続く、、、

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2024年

1月

08日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、16

少年とやまべだけが存在している、、、、、、

大自然の中の静寂、、、

まるで自然と一体化しているような錯覚に陥るくらいの静けさ

潜在意識にまで届くような静寂、、、、、、

あの様な感覚を以後感じた事はありません  今 思えば 非常に貴重な体験だったのでしょう

秋も 深まったある日 何時もの様に 川釣りを楽しんでいました

夢中になって 上流へ上流へと進んで行くと 一瞬 何かに圧倒される様な場所に出ました

川は大きくカーブしていて 水はユックリ流れています

そのカーブの内側の土手部分は深くえぐられていて 洞窟の様に成っていました

水深は2メートル近くもあったでしょうか

川幅は5メートルくらい

足場は 砂地になっていて、、、、、、

子供ながらにも  この場所は何か厳かな雰囲気がするなぁ、、、 と思いました

釣り糸を その洞窟の方へ 2、3度 流し入れてみました

すると!!

物凄い衝撃が 手に伝わって来ました

ガクーーーーン!!!

な なんだ!?

もう夢中で竿を持ち上げました

川底で やまべの白い腹がピカッと光りました

でかい! これはでかいぞ!

何時もの様に 簡単に竿を川から上げる事が出来ません

そのやまべは 洞窟の奥の方へ逃げようと必死です

少年も 力を込めて 川上の方へ引き上げようとします

少年とやまべの闘いは 5. 6分も続いたでしょうか?

いや もしかしたら もっと長かったかもしれませんが  やっとの思いで そのやまべを引き上げて 左手で握りました!  

その瞬間 白子が ピューっと噴出したのです!

初めての経験でした

今思えば 可哀想な事をしたと 思うのですが その時は 釣り上げた充実感で 

いっぱいでした、、、

通常 やまべの大きさは 15〜20センチなのですが そのやまべは 40センチくらいありました

きっとその洞窟の主 だったのではないでしょうか、、、

最初にその場所に出た時の厳かな感じと 主のようなやまべと 何か 関係が有ったのかも知れません、、、、、、

65年経った今も 忘れる事が出来ない

感動的な 出来事でした、、、

続く、、、

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2024年

1月

05日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、15

曲がりくねり ユックリとした水の流れの穏やかな川

それが信義少年の住んでいた仁仁志別の川でした

ある日小さな橋の上から 川を眺めていると 魚が数尾 泳いでいるのが見えました 

あっ そうだ 寂しがってばかりいても しょうがないから 魚釣りでもしてみよう!

と 思い立ち家の前にある 仁仁志別に一軒しかない 商店に行き釣竿と(釣竿と言っても2メートルくらいの細い竹を切っただけの物ですが、、、) テグスと針を買いました

こう書いていて 今 気付いたのですが

釣竿と糸と針が 売られていたという事は 部落の中に釣りをする人が居たと言うことになるのですが 

仁仁志別に居た2年間で 一度も

釣り人に出会った事が有りませんでした

不思議です

どこで 釣りをしていたのでしょうか?

まぁ ソレはさておき 

夕張に居た時に

家の前の川(家は山に向かって上流の方でしたので 黒くは無い 普通の川でした)

で カジカ を釣った時のことを思い出してミミズを 餌にしようと思い そこらじゅうに積み上げられている 馬糞の中から ミミズを適当に 缶に集めました

さあ 出発です!

川釣りは 川上から川下へ 流れに任せ糸を流します 最初から

いきなり ガクンと 手元に衝撃が走りました!! なんだ!どうしたんだろうと思い

ピッと 竿を持ち上げてみると なんと

やまべ が釣れているでは有りませんか!!

非常に 簡単に 釣れました!

15センチ位の体長で 体表には 丸くて黒い模様が3つ4つ 有ります

家に帰って 図鑑で調べたら 

やまべ(め) だと知りました その他に

イワナ(うぐい)  いとう 等が この辺には生息していると言うことも学びました

さて 話を戻して 、、、

あの ガクンと言う 衝撃がたまらない快感を伴って少年の心を捉えました!!

ああ、、、魚釣りって 面白いんだなぁ!

淋しさなんかすっかり忘れてもう夢中でした

10メートルくらい 川を上ると 7. 8匹くらいはすぐに釣れます

釣ったやまべは 近くにある 細い木を20センチ位の長さで折って 葉っぱを全部取って 魚のエラから口へ通します

簡易 ビク です

その日は 20メートルくらい 川を上った所で 終わりにしました

もう ミミズが 無くなったのでした

20メートルと言っても 川は

曲がりくねっていて 周りは 雑木林で 大自然の真っ只中って言う感じで 物音一つしません

聞こえる音は 鳴き方の違う 数種類の

鳥の声だけ、、、、、、

信義少年とやまべのみが 存在している

、、、、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

04日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、14

さて 渓流釣りですが、

実際は 自分の家から 20〜30メートル行くと 小さな橋が有り その脇を 5メートルくらい下がると川が有ります

その川は 渓流と言うよりは 曲がりくねっていて 水流も穏やかな優しい佇まいを見せていました

村の人々は 開拓の仕事で忙しく 誰一人として のんびり魚釣りなぞ している人はいません

想像出来ないかもしれませんが 1時間 2時間 道を歩いていても 人間に会う事は全く有りません

でも リスとか トカゲとか ヘビとか

キツネとか とんび 鷹 鷲 、、、、、、こう言う ヒトたちには 良く会いました

この様に 開拓部落と言うのは 想像を絶する所なのです

人間というのは 一度も見たことのない物を  創造する  事はできないと聞いた事が有りますが その開拓部落の様相をイメージする事は難しいかも しれませんね、、、、、、

もう少し 詳しく説明しますと 小中学校の周りに 家が 10軒ほど 集中して有りますが そこから 離れていくと 200〜300メートルくらいは 家が有りません

周りは 殆ど 雑木林です!

300メートルくらい離れると 家が 一軒 ポツンと有ります

その家の周りが 開墾した畑に成っていて その他の部分は 未開墾の雑木林で

そこから 300メートルくらい離れると 又 一軒 ポツンと有り 家の周りが 同じ様に 畑に成っています

小中学校を中心にして 全方位にわたってそんな感じです

ソレが 信義少年がいた 仁仁志別の様子です

さて 渓流釣りですが 実際は先ほど説明したように 渓流では無いですが、、、

渓流釣りと言う言葉を知ったのは東京に住むようになった ずうっと後のことです

その 渓流釣りですが、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

03日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、13

仁仁志別の大自然、、、、、、

特に 川 ですが、、、

夕張はご存知のように かつては 石炭で栄えた街です

上流に石炭採掘場が 有ったせいで 川の大部分は 真っ黒でした

そう 夕張の川は 黒かったのです

子供の頃は 川は 黒いモノだと思っていました

仁仁志別は 正確には 町の山花 に近い方から 下仁仁志別 仁仁志別 上仁仁志別 と言います

仁仁志別川は 下 の方に行くと 川幅も広くて深くて 大きな川になります

多分北海道地図にも 仁仁志別川というのは 記されていると思います

僕が住んでいた辺りでは 川幅も少し狭まって 上流に上るにつれて 水深も浅くなっていきます

僕が住んでいた1958年 頃から ちょっと前までは 秋になると 鮭が上がって来たと言います

その季節になると 幅2メートル 深さ1メートル位の上流では 川に棒を差し込んでも直ぐには棒が倒れなかったと言われるくらい 鮭 が群れを成して押し寄せて来たそうです、、、、、、

そんな名残を残している川が村を縦断していました

僕は毎日の様に やまべ(め) を釣りに行きました

渓流釣りでも 難しい部類の魚と言われている様ですが、、、

気の遠くなるような 静寂の中 

無心に 釣り糸を流している 信義少年の 姿が目に浮かびます

その様に 何かに 熱中している時は 

淋しさを忘れる事が出来ました、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

02日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、12

のんびりとした環境の複式学級でしたが

4年生まで 北海道としては中都市の小学校で教育を受けていたので あまりの落差に戸惑いと 失望と焦りを感じました

教師用の参考書を頼りに自分で勉強しました、、、、、、

その結果 夏休み前くらいには 5年生の勉強を終えて 5年生を終わる頃には 6年生の勉強を終えていました

複式学級の授業で 先生が5年生を教えている時は 5年生の、、、、、、

6年生を教えている時は 6年生の授業を聞いていました

そんな生徒は 他にいませんから 先生も授業やりにくかっただろうと 今になって思います  が  その当時は 先生の気持ちまで推し量る事は 出来ませんでしたね

まだ 10歳の子供ですから、、、、、、

複式学級って言うのは この様な形で 授業が行われます

僕は 夕張という 都会で育ち 突然

仁仁志別という 非常に 現実離れした

開拓部落 にいきなり 放り込まれたのです、、、、、、

しかし 悪い事ばかりでも 有りませんでした

開拓部落の山や川 殆ど人が居ないせいもあり 全くと言って良いほど 大自然が創り出した 形が そのままの姿で有るのです

大自然! 

山や川は 10歳の少年にも

深い感銘を与え得るほど 美しいものでした、、、、、、

続く、、、

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2024年

1月

01日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、11

僕は勉強はさほど好きではありませんでしたが、、、、、、

いやあ〜〜  自慢話になるみたいで 本当は嫌なのですが と言って 嬉しそうに書いていますが 夕張で小学校4年生の時 担任の岡崎先生は テストの採点を何故か 僕にさせていました、、、

生徒達が50人くらい 教壇に向かって座っています

岡崎先生が 教壇に立って生徒に向かっています

その横に 僕も生徒の方に向かって机に座り 今 終わったテストの採点をしています

こんな 経験ってした事あります?

今の時代なら 大問題なのでしょうが

あの当時は そういう事が許されたのでしようね、、、、、、

さて 話を戻して 

そう さほど勉強は好きではありませんでしたが 仁仁志別での 複式学級の授業のやり方を見ていると 大いなる不安を感じました

こんな所に居たら 大変な事になる、、、

しかし 僕には秘密兵器が 有ったのでした

教員には 教科書のどのポイントを教えるかという 参考書(指導要項) が与えられているのです

僕は 校長先生の息子だったので どういう入手経路だったか 忘れましたが

5年生 6年生 の全教科のその参考書が有りました

それを頼りに 自分で勉強したのです

他の子達を見ていると 自習時間は殆ど寝ているし 15分間の授業の時も ぼーーーっと 宙を見つめている子が多かったです  

毎日 自然や大地と闘っている同級生達には 理屈は要らなかったでしょうし 身体も 疲れていたのでしょう  先生もソレが 分かっているから

寝ている子は そのまま 寝かせているし 本当にのんびりした 大らかな授業環境でした、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

29日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、10

学校が家で家が学校でした、、、

それがどういうことを意味するか 皆さんは 実感できますか?

開拓部落と言えども 仁仁志別小学校と言う名前が付いていますから 学校としての機能は最低限 全て揃っています

理科室 音楽室 図画工作室 図書室

体育館はそれなりにすべて 有ります

それらのものが 何時でも好きな時に

一人で使えるのです

それは 結構楽しい事でしたが、、、、、、

例えば 体育館では 卓球台を壁に押し当てて 一人で卓球したり バスケットボールを持って 一人でゴールに入れて

また 向かい側のゴールに走って行って

ゴールに入れて又 元のゴールに向かって走って行って、、、、、、

色々な事をやりましたが 結局 ゲームというのは スポーツは 一人でやっても楽しくは無いのです

夕張の 母や父 友達の事を 思い出して 寂しさが込み上げてくるのでした、、、

14人の同級生たちは 何せ 開拓部落の子供達なので 学校が終わると直ぐに 家に帰って 手伝いが 山ほどあるのです 誰一人として 遊んでいる子なんて

いません!

仁仁志別で 遊んでいる子供は 校長先生の息子の 柘植信義ぐらいでした

それほど 開拓部落と言うのは 自然との 闘いが 強烈なのです

さて 複式学級ですが

僕は 5年生でしたから 4年5年6年生

が一クラスの教室でした

一時限が 45分なので 最初に4年生が15分間 授業を受けます

その間 5年6年生は自習です

次の15分間が 5年生

最後の15分間が 6年生の授業です

授業を受けていない時間は全て 自習です  そういうシステムでした

僕は 4年生の 授業を聞いていましたが

夕張で学んだ 4年生の授業と比べると

話にならないくらい お粗末な物でした

さほど 勉強は好きな方では有りませんでしたが ここに居たら 夕張の 同級生達とは 完全に取り残されてしまう という 不安に駆られました、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

28日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、9

       複式学級

涙で枕を濡らした日から 4、5日が経ち

春休みも終わり 小学校五年生としての

新学期が始まりました

仁仁志別小学校五年生です

同級生は 男子 6人 女子 8人 合わせて 15人が 全員です

小学校1年から6年まで 全部で 60人しかいませんでした

よく TVのニュースで見た 山の分校

そのモノでした

小1から小3の3学年が1クラス 小4から小6の3学年が1クラス

先生は 校長を除いて3人だけ

ビックリしました

夕張では 1学年 8クラス有って 1クラスに 50人位居ました

その 落差のナント大きいことか!

それでも 新学期というのは 楽しく

希望に満ちたものでした

夕張の時は 旭町の自宅から学校まで 徒歩15分位 

最初に竹内すみちゃんを迎えに行って その次に 轡田やえちゃん そして冨樫君 次に 学校のそばの 石井君の5人グループで小学校に通っていました

そういう システムだったのです

ソレに引き換え 仁仁志別小学校は 柘植家のドアを開けたら 学校の廊下です

家から学校まで 5秒です!

信じられますか?

学校が家で 家が学校です!

大変な所に 来てしまったなあ、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

28日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、8

柘植広と阿部トミの同居生活は続き

何年間の月日が流れ、、、、、、

当時の日本人の心の底に 流れる儒教的

な考え、 家 の存続の問題が湧き上がりました

柘植広の函館の弟 三郎夫婦には子供がありませんでした

山形の妹 郁子も同じでした

それで おばあちゃんの家系を見渡すと

なんと 勝子の嫁いだ宮崎家だけに 3人の 男の子がいました

以上の理由で 僕に 白羽の矢が立ったと推察されます

僕の母は おばあちゃんに頼まれて やむを得ず決断したのだろうと思います

当時はそう言う考え方が当たり前な時代だったのでしょうね

1958年 昭和33年の頃です、、、、、、

さて 信義少年は 夕張から想像も出来ないくらい遠く離れた地 仁仁志別に

突然 連れてこられました

今日から 全く新しい生活が始まろうとしています

この 開拓部落 仁仁志別で どんな生活が待っているのでしょう、、、、、、

それでは 心に刻み込まれた出来事の一つ一つを思い起こして 次回から

皆さんに読んで頂く事に致しましょう

続く、、、

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2023年

12月

28日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、7

涙が溢れて枕を濡らして寝ても 一晩

寝ると 何事もなかった様に 新しい1日が始まります、、、、、、

寝巻きから 普段着に着替えて 茶の間のストーブのそばに 座りました

すると おばあちゃんは 以後 何百回と聞く事になるのですが 何故 僕を

柘植家の跡取りに選んだのかを 説明し始めました

その ストーリーは こう言うものでした

おばあちゃんには 5人の子供がいました

長女   阿部れいこ

長男     貞則

次女     たか子

三女     勝子 (僕の母)

次男     貞之

勝子が 12〜3歳の頃 家のそばで

遊んでいると 師範学校の学生が ひどい怪我をして 足を引きずって 苦しそうに近づいて来ました

見かねた 勝子が 家に連れて行き 母に 手当てを頼みました

その 学生が 柘植広 だったのです

それが 縁で 阿部家と柘植家の交流が始まり 裕福では無かった柘植広の面倒をおばあちゃんがみたと言います

柘植広は 次女のたか子と 結婚の約束をしていたのですが たか子の病死で 婚約も 自然消滅、、、

そして 柘植広は その後 肺病を患い

当時は 重い病として 嫌われていた様で 生涯独身を通しました。

次男の 貞之が 函館工業高校の学生だった頃 夕張に 実家のある 宮崎勝義(僕の父)が 函館の 叔母の所に下宿をして 函館工業高校に通っていました

宮崎勝義と阿部貞之は いつしか 心の友に成り 勝義が 阿部家に頻繁に出入りする様になります

勝義が勝子を見染め その後 結婚 

三男二女を もうけます、、、

月日は流れて、、、、、、

柘植広は 師範学校を卒業して 釧路管内で 教員生活を続けておりました

精進を重ねて 教頭から 校長に成ろうという時一つの問題が起き上がりました

それは 校長になるには 家庭を守る人がいる事が必要条件だったようで 

それで 若い時 お世話になった 阿部トミを 養うと言う目的も兼ねて 同居したのでした、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

28日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、6

あっ! このお年寄りは 以前見た事があるような気がする、、、、、、

静かな沈黙の中で 必死に何処で見た事があるのかを 思い出そうとしました

あっ そうだ お母さんと一緒に 霧多布 に行った時 いた人だ!

あっ おばあちゃんだ! 良かった 

おばあちゃんだ、、、

と思ったとほぼ同時に 彼女は 低い声でいいました

信義、、、 良く聞きなさい

生みの親より育ての親と昔から言います

今日から お前は 柘植家の 長男です

この人も ボクの味方じゃ無いんだ、、、、、

と思い 淋しさと悲しさが 一気に

膨らんだ気がしました

もう 後は ずうっとうなだれていました  その間 おばあちゃんは 何かを

話し続けていたようでした

今 考えると 柘植家の 長男 跡取りとして立派な人間に育てようという

義務感と責任感が ほと走っていたんだろうと思います

どのくらいの時間が経ったんでしょうか

数分かもしれないし数時間かもしれません

長旅で 疲れたろうから 着替えて休みなさい   と言う言葉に はっと我に帰り 現実に戻りました

おばあちゃんは 寝巻きを何処からか

持って来ました

普段着どころか ランドセル 教科書

ゴム靴 運動靴 等 明日から始まる

新生活に必要なもの 全てが 揃っていました

知らなかったのは 僕だけで 大人達は

皆んな こうなる事を知っていたのでした!

函館 山形 と行った旅行も今に成って思えば ただの旅行では無くて 

函館、、、  柘植広の弟 三郎夫婦

山形、、、 妹 侑子

彼らに 柘植家の跡取りとしての僕を引き合わせるための旅だったのです

、、、、、、、、、、、、 もう すっかり観念するしか無い気持ちと 長旅の疲れもあって

床に入り いつしか 溢れる涙 と共に

眠っていました、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

22日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、5

3里の道について少し説明しますと 一里が約4キロだから 3里で12キロメートル   普通 成人男性が4キロ位を1時間で歩きますから 12キロメートルだと

3時間の行程になります

子供の僕には 気が遠くなる様な距離でした

そして そのトロッコには 御者というか 運転手は居ませんでした

トロッコは毎朝 10時頃 仁仁志別を 出発して午後1時頃 山花駅に着き 3時頃 山花駅を出発して午後6時頃仁仁志別に着きます

馬は 山花駅のそばの停留所で繋がれて放って置かれます

仁仁志別には 馬の小屋が有りました

その間の運転と言うか 馬を動かすのは 乗客でした

のんびりした時代でした、、、、、、

何せ 仁仁志別に連れて行かれる時に一度しか 乗った事が無いので トロッコについての記憶も曖昧です

中学1年生の時 柘植広の転勤で仁仁志別を去るまで 一度も 仁仁志別を出た事が無いのです

さて  夕方 薄暗くなった頃 仁仁志別に着きました

家が 4. 5軒 ぽつん ぽつんと有ります

細い道をおじさんの後から トボトボ付いて 3〜4分も歩いた所に

仁仁志別小中学校(小学校と中学校が一つにつながっています) が有りました

その小中学校に 連結して 住宅が有り

そこが 柘植広 の住まいでした

そう 彼は 校長先生だったのです

彼は 物も言わずに玄関を開けました!

すると 中から 62〜3歳位の女性(阿部トミ) と20歳くらいの女性(柘植安子)

二人が お帰りなさい! と声をかけました、、、

うん と小さく頷いて おじさんは玄関を上がり居間のストーブの前に座りました 僕はその後に続き2メートルくらい横に離れて座りました

柘植広 仁仁志別小中学校校長(47.8歳)

阿部トミ   母の母親(62.3歳) 実のおばあ

     ちゃん この壮大な物語の

     大元になっている人物

柘植安子  20歳位 15.6歳くらいの時

     広 の赴任先の農家の娘で

       養女になる

柘植信義  現在の宮崎カポネ信義

この 4人と 開拓部落の大自然が この物語の中心になります、、、、、、

続く、、、

 

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2023年

12月

21日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、4

信義 今日からお前はうちの子になるんだよ、、、、、、

もう 既に夕張からずうっと離れて遠い所に来ているし 子供ながらにも

事の重大さに圧倒されて なすすべが

無かった と言うところでしょうか、、、

山花 と言う駅から やや離れた場所に

仁仁志別(ににしべつ) 行きの 馬車 の

停留所がありました

馬車!  ですよ!

それを 地元の人達は(後になって知ったのですが) トロッコ と呼んでいました

1メートルくらいの幅の細い線路が敷いてあって ソコを 馬が 一頭で 7〜8人くらいが座って乗れる 三畳位のスペースの木の箱を 引っ張って行きます!

仁仁志別までの 公共の交通機関は 

なんと この トロッコ だけでした!

僕が 連れて行かれようとしている

仁仁志別という所は 

新聞  三日遅れ

水道  井戸水  と言う 開拓部落

でした

山花駅(今考えると なんと美しい名前)

から  3里の道を トボトボ 馬車に揺られて行きました

さしたる会話もなく 他に 乗客も無く

ゴトゴト ゴトゴト というトロッコの音だけ、、、

静寂の中を仁仁志別へ向かって行きます

これから どうなるんだろう、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

20日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、 3

あれ〜 変だなぁ〜、、、

その汽車は 函館本線で 函館から札幌、帯広、釧路 と進行して行きました

車中で 夕張からどんどん遠ざかって行くのを 見てはいるのですが 何せ子供ですから お金も持っていないし

何をどうして良いのかさえ 分かりませんでした

そのおじさんは 夕張の家に遊びに来ている時は 父と母と楽しそうに話し していると思っていましたが 実際には

非常に驚くほどの 無口な人でした

二人で旅行している間も 殆ど 会話が有りません

今になって思うと 父と母と楽しそうに話していた時 話しかけているのは 父と母だけで その おじさんはただ 頷いているだけだった様な気がします

そんな訳で さしたる会話も無いその 春休みの旅行は 僕にとっては楽しいものではありませんでした

汽車が釧路駅に着きました

そこから 別の汽車に乗り換えて阿寒湖

の方へ向かい 山花駅 と言うところでおりました、、、、、、

僕にしてみたら 見るもの全てが 初めてのものばかりで心境穏やかでありません

10歳の子供ですから、、、、、、

釧路から阿寒に向かう途中で 旅行の間 一言も話すことがなかったおじさん、、、

柘植広(つげひろし) が ボソボソっと

僕に言いました

信義 今日からお前は うちの子になるんだよ、、、

続く、、、

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2023年

12月

19日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、 2

僕は かつてお騒がせした 北海道 夕張市に 宮崎家の5人兄姉の末っ子 三男坊として 生まれました

1948年 昭和23年の事です

平凡ながらも 幸せな楽しい子供時代でした

そんなある日、、、、、、

たまに見かける おじさんが 又 泊まりにきていました

父と母と楽しそうに会話が 弾んでいます  特に 母が 懐かしそうでした

おじさんはたまに来ると お土産を一杯持って来てくれます

子供心にも 優しい 良い人だと思っていました

それに 何より 親と親しそうだし、、、、、

子供の頃は 親を通して良い人か悪い人かを 考えたり判断しているんですね

小学四年が 終わり春休みの頃でした

休みだから 旅行に連れて行ってくれる

と言う子供の僕にとっては嬉しい 思いがけない 話が持ち上がりました

夕張市から出た事がほとんど無い子供でしたので 喜んで付いて行きました、、、

夕張から 函館 そして 山形と2箇所立ち寄り 山形からの帰り道 何故か 汽車は夕張に向かわず 釧路方面に 向かっている様です、、、

10歳の子供ですから 只 盲目的に 付いて行くだけです

あれ〜!  変だなぁ〜?

続く、、、

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2023年

12月

18日

北海道阿寒郡阿寒町大字仁仁志別、、、 1

     [柘植]、、、、、、、、、

           ↑ コレ 読めますか?

草花草木に詳しい方 それから 忍者の方々はすぐに読めると思います

しかし 当時の 普通一般人は なかなかすぐには読めません

僕は小学校5年生から大学3年生くらいまで   柘植信義  と言う 名前でした

それには 人間模様を複雑に絡めて 大きな絵巻物にしたような深い 訳が有りました、、、、、、、

柘植信義、、、、、、   これが10歳から20歳

       くらいまでの間 ワタシ

       の 名前でした、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

08日

ピンクボンゴ、、、 166

大路さん 大好きだった映画 七人の侍

から ピンクボンゴのメンバーに 

想いを寄せて 考えていた処が 有りました、、、、、、

ボクは 何回も その話を大路さんから聞いていたので ある時 七人の侍のビデオを借りて来て観てみようと 思いました、、、

なるほど 菊千代は  ゲタ夫さんのようだなぁ  片山五郎兵衛は やっぱり

徹ちゃんだなぁ 岡本勝四郎は ジュアサ だよねー

久蔵は ノリちゃんかあ、、、

そうすると 林田平八は ポンタさんだな  やっぱり!

妙に 納得がいきましたね、、、

あまり映画は 若い時の クセ で見ないのですが あの時の様な 感じで観たことは 初めてで ソレはソレで 身近に感じて 面白かったですね

ボクなりに その7人の役割と言うか キャラクターを 考える様になりました、、、

宮本大路   ミスターピンクボンゴ!

       ゲタ夫さんメンバー紹介

       の時に 何時も言ってい

       てピッタリとおもいます

高橋ゲタ夫  ピンクボンゴの 太陽!

中島徹   ピンクボンゴの奥座敷

        第二の頭脳!

加納樹麻   ピンクボンゴの懐刀!

村上ポンタ秀一 ピンクボンゴの大番長

則竹裕之    ピンクボンゴの貴公子

宮崎カポネ信義  ピンクボンゴの看板

         娘  と 大路さん

         に紹介されています

ピンクボンゴに関わって くれた

ミュージシャンは まだまだ たくさんいらっしゃいます!

この ブログに登場しなかったけれど

忘れているわけでは 有りません!

今日で 166回も続いて来ましたが

一回目の時に お断りした様に 

あくまで ワタシの目から観た ピンクボンゴ について 書いてきました、、、

独善的な箇所や 記憶違いも 有ったと思います、、、、、、

その辺のところは どうぞ 寛大なお心で ご容赦して下さい。

永い事 読んで頂いて 有難うございました!

終わり!

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2023年

12月

07日

ピンクボンゴ、、、 165

村人百姓達と島田勘兵衛 一緒に戦ってくれる仲間を 探しに行きます、、、

後 6人の浪人侍が 仲間になって行くのですが それぞれの出会いのシーンが 良く作られていて 見どころなのですが

ここでは 映画の説明をするわけでは無いので 割愛して 出会って仲間になる 登場人物のキャラクターを少し、、、

出会いの順番通りでは無いですが

七郎次  勘兵衛の最も忠実な人物

     再開時には 勘兵衛の顔付き

     だけでその求むところを知り

     ソレに従って動ける

     長槍を振る  加藤大介

菊千代  勘兵衛の強さに惹かれて

     勝手について来た男

     三船敏朗

岡本勝四郎  7人の中では 最年少

       木村功

片山五郎兵衛  何時も静かで穏やか

        だが軍学は相当できる

       勘兵衛の参謀役戦死する

        稲葉義男

村田平八   愛想の良い明るい浪人

       最初の犠牲者になる

        千秋実

久蔵     修行の旅を続ける凄腕の

       剣客 野武士の銃弾に

       撃たれる 宮口精二

と 以上 7人の侍 の設定 キャラクター、、、

大路さん ピンクボンゴはメンバー5人なのですが 次の様に 考えていた様でした、、、、、、

島田勘兵衛 志村喬  宮本大路

菊千代   三船敏朗 高橋ゲタ夫

片山五郎兵衛 稲葉義男 中島徹

岡本勝四郎 木村功  加納樹麻

林田平八 千秋実  村上ポンタ秀一

久蔵  宮口精二  則竹裕之

七郎次  加藤大介 宮崎カポネ信義

なるほど さすが 大路さん!

良く 考えていたと思います、、、

七人の侍の中での 役割と ピンクボンゴでの 役割が 何と無く リンクしていると言うか 当てはまっている? 気がします、、、

皆さん そう思われませんか?

映画的には 野武士との 雨の中の戦いのシーンが 圧倒的に 迫力が有り 素晴らしい出来上がりに 成っているように思いました!

映画好きで無くても 黒澤明監督!

世界に誇れる 映画監督では 無いでしょうか!

映画の好きな 大路さんが 20回も 25回も 観た と言うのも 頷ける話で有ります!

この話を 東京ドームホテルや錦糸町の

東武ホテルの食べ放題バイキング を食べながら 大路さん ワタシに 良く

話してくれました、、、、、、

懐かしい 想いで です

ちなみに ワタシが 感じていた その7人の ピンクボンゴのメンバー 

次の様に 思っていました、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

06日

ピンクボンゴ、、、 164

黒澤明監督の七人の侍、、、、、、

大路さん 良く その 7人をピンクボンゴの 人達に ダブらせて 考えていた様でした、、、、、、

     七人の侍

登場人物     役者

島田勘兵衛    志村喬

菊千代      三船敏朗

岡本勝四郎    木村功

片山五郎兵衛   稲葉義男

七郎次      加藤大介

林田平八     千秋実

久蔵       宮口精二

大路さん この 人物と役者の名前をスラスラと 間違えずに 言います!

本当に ど ん だ けぇ ! 観たんだあー って 漢字 ですよね、、、、、、

大まかな ストーリーは 大路さんの説明によると次の様でした

戦国時代 士官が叶わなかった 浪人達が 徒党を組み 大きな集団になり 百姓達の住む 村 村 を襲い 食料や若い女達を 掠奪していました!

次は ウチの村が 襲われると言う恐怖に駆られた村人達が 村の長老の所に集まって 相談に行きます

そこで出た結論は  町に出掛けて 良さそうな浪人侍に幾ばくかのお金を払って村を 守ってもらおう!

そして 百姓達 街へ 村を守ってくれそうな浪人侍を 探しに行きます

この様な 展開で 物語が 始まるそうです、、、、、、

なんか 面白そう!

最初に 村人百姓の目に適った人物は

島田勘兵衛、、、、、、

この人は 七人の侍のリーダー的な人で

50代位の人物 知的な物静かな性格で

剣も めっぽう強い!

当然ですが 大路さん ご自分を 島田勘兵衛とダブらせて いた様でした、、、、、、

村人百姓達から 話を聞いた 島田勘兵衛は 一緒に戦ってくれる仲間を探しに

街に出かけます!

続く、、、

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2023年

12月

05日

ピンクボンゴ、、、 163

宮本大路さんは  とても 映画が 好きでした。

自分でも 演劇の 役者も演られていましたから、、、

中でも 黒澤明監督の  七人の侍 を非常に高く 評価していました

20〜25回位 観たと豪語していました!

日頃 プライベートの時間に 大路さん家族 カポマコ の4人半で 食事に良く行きました、、、

さとみさん バイキング料理が 好きで 東京ドームホテルや錦糸町まで来てくれて 東武ホテルの食べ放題 のキャンペーンなどを めざとく見つけては

カポ 行こう〜〜!

と甘い声で 誘惑の電話をかけて来るのです             笑

マコ! どうする? と聞くと 

ウン  行きたい!

と言うパターンにハマり 男衆 二人と半分が お供するという まるで 漫才の鉄板ネタの様な 展開になります

大路さんやボクも 食べることは 大好きですから さとみさんの その パターンに 喜んで ハマっていたところも有りましたが、、、、、、

そんな ホテルの 食べ放題の我々4人半のイベントの時 決まって 大路さん 

黒澤明監督の 七人の侍 の話を ボクにしてくれました 

そりゃ 20回も 25回も 観ていたら

映画のストーリーから 配役 登場人物

時代背景 衣装 等 細かく 頭に 入っていた事でしょう

それにしても 同じ映画を20回も観る!

と簡単に言いましたが 

深〜く考えて 想像して見てください

大路さんと言う人が少し 分かって来ませんか?

そう! 大路さんは そう言う人なのです!

だから あの様な サックスを吹き ピンクボンゴを作り あの様なパフォーマンスを 繰り広げられたのでしょうね、、、

黒澤明監督の七人の侍、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

04日

ピンクボンゴ、、、 162

和泉さんとの デュオの 録音、、、、、、

かなりの 集中力を 費やして 終わりました 

ピンクボンゴの レコーディングの時も

そうですが ボクは 終わったら 殆ど

聴きかえすことは 有りません!

もう 終わったこと、、、、、、

と言う感じですか、、、

さぁ コレから又ギターの練習だ!

やる事は いっぱい有る

クロマティック スケール 練習

左手と右手を合わせる練習 等

それから ジャズのフレーズも 覚えなきゃいけない、、、

ギターを縦に弾いたり 横に弾いたり 、、、、、、 色々有る

昔 20代の頃 師匠 高柳昌行さんに

1日 8時間は 練習しろ!

1時間ごとに 色々 目的を変えて 

集中力が切れない様にやりなさい!

と言われていたので ギターを色々な角度から考えて観る クセ が 付いているのです、28歳くらいの時は かなりのところまで ギター 弾けるようになったのですが 31〜2歳の時に 治療した

首の医療事故 みたいな事で 

全てが ダメ になりました、、、、、、、、、

左手の握力  3

右手の握力  4

と言う 衝撃的な状態に陥りました

この事実で 全てが 分かると思います

コレも 自分の選んだ 人生の結果だと

思い 少しずつ 又 やり直そう と

現在に至っているのです、、、

ピンクボンゴ もう少し 身体の良い状態で やりたかった、、、、、、

と 話は 横道にされましたが

和泉宏隆さんとの レコーディングも 無事に終わり  お料理上手な 和泉さん  カレーを作ってくれて その時集まっていた 和泉さんのファンの方を交えて 皆さんで 河内スタヂオの 食堂で 輪になり 美味しく 楽しく 頂きました

そして 次の日は 秋田の老舗のライブハウス   キャットウォーク で

和泉宏隆さんとボクのデュオ のコンサートをやりました 

そして 次の日 東京に帰りましたね

慌ただしいながらも あっという間の 秋田 ミニツアー でした 

そうそう 和泉さん ボクとの デュオのユニット 本当に 演りたかったみたいで ユニットの名前まで 考えてくれていました、、、

    ジェノバ コネクション

意味は 良くわからないのですが 響きが良かったので 覚えています、、、

東京に帰ってから 二、三度 ライブを二人でやりましたが その後 和泉さんの マネージャさんの 方向性なのかどうか知りませんが  フェイドアウト して行きました 、、、、、、

ボクも 何時しか そのレコーディングの事は 忘れて行きました、、、

和泉宏隆さんが 亡くなられて  しばらくして 何故か そのレコーディングの事を 思い出して 頂いていたCD ROM

を 聴いてみたいと思い 聴きました!

ビックリしました!

ピアノとギターの音が とても良いのです!、、、、、、

少なくとも ギターに関して言えば

過去に録音した ピンクボンゴや ホットコルネッツ や テンダリーズなど

20枚くらい レコーディングした CD

と比較すると 段違いくらいに 良い音でした!

天国にいる 和泉宏隆さんに 言いました!

和泉さん  ありがとう!

良いものを 遺してくれて、、、、、、

続く、、、

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2023年

12月

01日

ピンクボンゴ、、、 161

秋田の 和泉宏隆さんの 懇意にしている スタヂオ 広くて 立派な グランドピアノ が 置いて有りました!

そして その 大きな部屋にピアノ一台

小窓の付いた 小さめの別の部屋にワタシが 陣取り 又 別室に 録音ミキサー が 居て 録音が 始まりました、

大切な事なのに ミキサーさんの お名前が 思い出せない!

たしか こうちさんと言うお名前だったと思うのですが、、、、、、?

ご自分の自宅の中に 作られた 録音スタヂオ、、、

いわゆる プライベートスタヂオです

どんな音で 録音されるのか 良く分かりません

ボクの記憶では 

一曲 やって プレイバックして チェックしながら 録音をすると言う方式を取らずに 一気に 最後の曲まで やった様に思います

ジャズですから、、、、、、

どの曲が その一曲目なのか 忘れましたが 最初の曲を 録り終えて 和泉さんと僕の 音の質感だけ 確かめる為に プレイバックして 聴きました

とても良い音でした!

コレなら 大丈夫!

と 後の録音 予定曲 6曲 プレイバックせずに 一気に 録り続けました

和泉さんも ボクのその想いに 応えてくれて 集中して 演奏されていました

ミキサーの 多分?こうちさん

驚いていました

いつもの 和泉宏隆さんの レコーディングでは 録音しては 何度も 聴き返して 又 録音する 又 聴きかえす

いわゆる take 1 . 2. 3. 、、、、、、とやられている様で  今回のレコーディングは

全てが 一発録り ですから

ボクには 根拠が薄いのですが ジャズというものに対する こだわり が有るのです、、、

ジャズミュージシャンは 日常の中で 精進を重ねて居て ソレが 一番大切な事で音楽現場で 音を出す事は その 自分の一部を 表現する事にすぎない!

生きている事こそが ジャズ なんだ!

と言うものです、、、、、、

この考えは 師匠 高柳昌行さんに10年間 師事した時に 自然と身に付いたものでした、、、

勿論 人によって 色々な お考えがある事だと思います

その全てを 理解しようと 勤めているつもりです、、、

安心してください  履いています!

の心境ですね、、、    笑

今回 和泉宏隆さんに 前もって そんな ボクのこだわりを 説明した訳ではないのに その様な形の録音に 従ってくれて 嬉しかったです♪

和泉さんから 誘って頂いた今回のレコーディングなのに、、、、、、

続く、、、

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2023年

11月

30日

ピンクボンゴ、、、 160

ん! 見たことあるぞ!

あっ! そうだ! 北広島?の カッパちゃん主催の ピンクボンゴのライブの時に オロナミンC の差し入れを 持って来てくれた人だ!

和泉さんが ゲストでいる時 いつも お客さんで 前の方に いる人!

そうだ! 日本一の 和泉宏隆さんの大

ファン クラポンさん!

んで なんで 通路挟んで そこに居るんだ?  と 思う間も無く 

こんにちわぁ〜 と挨拶されましたね

ハイ こんにちは♪

何故か分かりませんが 一緒に 秋田まで 行く様でした、、、

特に その事についての 和泉さんから

説明も無かったので ワタシも 聞きませんでした 

秋田に着いてからの事は あまり詳しく覚えていないのですが 宿をとり 

秋田にお住まいの コレまた 和泉さんの 強いファンの女性の方の 案内で

食事に行きました、、、

さすが和泉さん 人脈が 広い!

そして その方の お家の ピアノを借りて 和泉さんと二人で 今回の レコーディングの為の 曲や アレンジ など を練りました、、、

IT COULD HAPPEN TO YOU

シャレード

WAVE

MY FUNNY VALENTINE

黒いオルフェ

酒とバラの日々

、、、、、、、、、 等

和泉さんの セレクトした曲たち、、、

きっと 最近 和泉さんが良く 演奏されている曲なのでしょうか 

ソレを ボクが あーでもない こーでもないと ばかりに 色々 退屈しない様に 考えて アレンジ しました、、、

普通の人の お住まいの 一室で ピアノとギター の生音 、、、

遠く 秋田まで来て リハーサルが 通常やるスタジオではなくて 和泉さんの

ファンのお宅で やった、、、、、、

この 珍しいパターンに 一抹の 驚きと 不安を感じたので このくだりは

ハッキリと 覚えています!

そして 次の日でしたでしようか

いよいよ 録音する 和泉宏隆さんが

懇意にしている プライベート スタジオ に出向きました 

想像以上に しっかりとしている スタジオでした♪

特に 用意されている ピアノは 大阪の旧 フェスティバルホールに有ったスタインウェイを運び入れた物の様で 素晴らしい グランドピアノでした♪

さらに 調律師の遠藤信和さんが居て

ピアノを調律していました

信和さんは ソレ以後 個人的に ボクもお付き合いする様になるのですが 石巻市から この日の為に とんできた様です  

ナント 和泉さんらしい ピアノに対する こだわり!

皆さん 和泉宏隆さんが 好きで 集まってくる様でした

他にも ファンの方が 二、三人 お手伝いに 集まっていましたね、、、

昨日の 二人だけで 普通の マンションの一室での アップライトピアノとやった リハーサルとは 大違い!

かなり 本格的な 録音が始まりました!

ギターアンプも 秋田在住のギターリストの方から お借りした ポリトーン製の 何時もボクが 使用しているのと 同じ物が用意されていました

あの 素晴らしいグランドピアノと一緒に演奏するには 充分な体制です!

ジャズの録音ですから 殆ど 一発録り! 手直しもない!

ジャズの勢いに任せた 録音だった様に思います、、、、、、

続く、、、

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2023年

11月

29日

ピンクボンゴ、、、 159

デザートを3人で 食べながら 和泉さん

ワタシに 真剣な 表情で 言いました

秋田に 自分の 懇意にしている スタジオ が有るので そこで 一緒に レコーディング して 欲しい !

何を やるのですか?

と聞くと ジャズ !

ジャズを 二人で やりたいんです!

ピアノとギターの デュオ ですね

数々の名盤 が 有りますが、、、、、、

和泉宏隆さんの少ない ボクなりのイメージは 人気 フュージョンバンド

スクゥエア で 活躍された 人 というものでしたから 少し 驚きました

和泉さんの最近の 活動は そう言えば

ジャズピアノのトリオ編成も よくされていたようでした、、、、、、

ピンクボンゴの一週間位の ツアーで初めて 一緒に演奏をして そう思って頂いた様で ボクとしては 嬉しい お話なので 

やりましょう!

と 気持ちよく お返事 させて頂きました!

和泉さん 少し 安心されたようで 後は 取り留めのない お話で 盛り上がったりして ユックリ時間が 流れて行きました、、、、、、

気がつくと 結構 良い時間になっていたので  ソレでは 又 後日 連絡させて頂きます  と 丁寧な挨拶 を貰い  カポマコ の二人 麻布 から 錦糸町に 帰りました、、、

それから 直ぐに 和泉さんから 電話が有り  3泊4日くらいの ミニツアー

秋田行きです、、、、、、

送られて来た 東北新幹線の切符の指定の席に座ると 隣に 和泉さんが、、、、、、

二人の珍道中? の始まりです

二人で 色々と ジャズの話をしたり 

スクゥエアのギターリスト 安藤さんの事  実は 兄弟弟子 なんです♪

とか 色々 話しが弾んで いた時 何気に 通路を挟んだ 横の席から 時たま 視線を感じるのです、、、、、、

ん? 誰だ あの可愛い 女性は?

続く、、、

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2023年

11月

28日

ピンクボンゴ、、、 158

和泉宏隆さんのご自宅に マコと二人で

遊びに 行きました

和泉さん ツアーで 一緒に仕事をしていた時とは 打って変わった 雰囲気で 

プライベート感 たっぷりな服装で我々を にこやかに 静かに 迎えてくれました、、、

麻布、、、  高級な住宅地のイメージ通りに

古いけれども 落ち着いた たたずまいを感じさせる 良いお家でした

ワタシは 北海道の夕張の田舎育ちで うちは 公務員の家庭でしたので 家も 社宅で 平々凡々とした物でしたから

東京で麻布の高級な住宅街で育った

和泉宏隆さんに 少し 興味が湧いて来ました、、、

玄関を 上がって すぐに 2階の 和泉さんの お部屋に 案内されて 

イヤ〜 久しぶりです

ツアーでは お世話になりました

有難うございましたぁ〜

いえいえ 楽しかったですね

家内の マコです、、、

と型通りの挨拶を交わした と思ったら

ソレでは ちょっと お待ちください

と言って 一階に降りて 行っちゃいました

和泉さんのお部屋を ユックリ 眺めて見ました、、、

部屋いっぱいに グランドピアノが置かれて居て この部屋は ピアノ以外

何も要らない と言った感じ、、、

ピアノの上には 無造作に 譜面の束が置かれて居て 何時も 作曲をしている

曲作りをしている と言う 現場感 が溢れています、、、

この部屋で 和泉さんのオリジナル

宝島 などが 作られたのだな とちょっと 和泉さんの 秘密を覗いているような 得したような 気分でした

そんな事を考えていると 和泉さん

両手に スープの様な 物を 持って

来ました!

食通のグルメさん らしく そのスープ

の素材とか 作り方などを 説明してくれるのですが ワタシには 意味不明でした  笑

召し上がってください

と言って 又 一階に行ってしまいました、、、

どうやら 今日は この様な パターンで 次々と お料理を 作ってくれるようです♪

スープ 美味しかったです

コンソメ風な アッサリしているのだけれど しっかり 味が有り 良いスープ ? でした

スープを 呑み終えたあたり 測ったように 鶏肉 だったでしようか 

不思議な 味付けがされていて ステーキ風な 一品が 運び込まれました

ボクは 3人で 一緒に 食べる事を想像していたのですが そうでは無いようです、、、

よく考えてみれば そうですよね 

和泉さんも 一緒に 食べていたら 次の料理 誰が作るのか って なりますから、、、、、、

とにかく 今日は 和泉さん 私達に得意のお料理を振る舞いたい 食べて欲しい と言う おつもりの様でした、、、

ソレから 何品か 運ばれて来て 美味しく 頂きました、、、、、、

最後の デザートの時   挨拶がわりに 錦糸町の果物やで買って お土産に差し上げた 美味しそうな 苺(高かった) が 出てくるかな?

と 楽しみにしていたのですが 

モンブランのような 洋風なケーキとコーヒーでした。

苺 食べたかった、、、、、、笑

デザートタイムの時は 和泉さんも

一緒に 席に 座って 3人で ユックリ

お話をしながら ケーキを食べました、、、

和泉さん  

今日来て頂いて 有難うございます 実は お話が 有りまして

、、、、、、

続く、、、

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2023年

11月

27日

ピンクボンゴ、、、 157

石川県七尾市の5スポットのライブを終えて 神戸のチキンジョージ、、、

ジャズ系のバンドの我々には あまり縁の無かった ライブハウスに向かいました

和泉宏隆さんの繋がりだったのでしょうか  初めての 場所は 多少の緊張が有ります 色々な意味で、、、、、、

それでも 和泉さんの ファンの方も多くいらしていたようで 満席でした

神戸は初めてでしたので ピンクボンゴ 受け入れてもらえるか心配もあった我々

大いに張り切って 演奏しました

和泉さんも 楽しそうに ピアノ 弾いていましたね、、、、、、

宝島  LOVE BALLAD    OMENS OF LOVE  などの 和泉さんの オリジナルの曲も、ピンクボンゴ風に 溶け込んでいて 良い感じになっていました

和泉さんとは そのツアーの間は そんなに親しく お話はしていない記憶なのですが 

ツアーが終わり 東京に戻ったある日

和泉宏隆さんから 電話を貰いました

、、、、、、

お食事を ご馳走したいので 家まで

遊びに来て頂けませんか?

と言う内容の話しでした

突然の事だったので 多少の 戸惑いも有りましたが 何やら 和泉宏隆さんは

グルメで お料理上手の様子

それに マコも 一緒にどうぞ と言う事なので 快く 招待を 受けて 

和泉宏隆さんのご自宅  麻布 へ

伺う事にしました、、、

マコも 一緒、、、

と言う話で 思い出しましたが

大路さん 有る時 ボクに

カポネさんは 自分の考えを 他人に相談する事って 有るんですか?

と 妙な事を聞いて来た事がありました 

きっと 大路さんとの やり取りの中で

僕が 圧倒的に 話を進めてしまう事が

あたかも知れませんね、、、

そんな時は 多少の 不満が 有ったのでしょうね、、、 多分  笑

カポネさんは 他人に物事を相談する事って あるんですか?

当たり前じゃない!何時も マコに相談して 意見を聞いているよ!

と答えたら 大路さん あんた達は 二人で 一人じゃないですか!

と 笑いながら 言っていました 

それで 何時も ワタシ達のことを

カポマコ と呼んでいましたね、、、 笑

大路さんの愛息の周青君ですら 時たま 

ねえ カポマコさん と我々に向かって

話す事が有りましたから、、、

話が 横道にそれましたが そんな訳で

麻布の和泉宏隆さんのご自宅に 行きました、、、、、、

続く、、、

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2023年

11月

24日

ピンクボンゴ、、、 156

大路さん  熱帯ジャズ楽団など 日本のトップクラスの ビックバンドのバリトンサックスを担当 していて コンボバンドも クロスカウンター と言う名のバンドも 演っていて とても 忙しく 活動していました、、、

その上 多数の人からも 誘われて コラボしていた様でした♪

その中の一人に 日本の 二大人気フュージョンバンドの 一つ スクゥエアのピアニスト 和泉宏隆さんが いました 

takarajima 

Lave Ballad

O mens Of Lave

などの 名曲を 世に出されていた様でした。

ボクは 高柳昌行さんの影響で 殆ど 人の演奏は 聴いた事がないので 全く知りませんでしたが、、、

その 和泉宏隆さんが ある時 ピンクボンゴに 特別 ゲストとして 参加されました。

ソレはソレで 面白い ピンクボンゴになっていた様でしたが 

ガッチリ出来上がっている所に 入ってくるのは 大変だったと 思います

印象に残っている事の一つに 石川県七尾市の 5スポットと言う ライブハウスに ピンクボンゴ➕和泉宏隆 の形で出演した時  ピアノ には こだわりのあった様な 和泉さん

5スポットの ボロピアノ(失礼.、、、) しかも アップライト!を見て 

大路さんに  

コレを弾くんですか?

と悲鳴に近い声をあげて 聞きました!

セッティングの準備に忙しい 大路さんは 事もなげに 

はい そうです 

これしか 有りません!

と言い放ちました、、、、、、

あぜん と その場に 立ち尽くす

和泉宏隆さん、、、、、、

和泉さんは ピアノというものを大事にされていて

非常に こだわりがあった様でした

もちろん 演奏する前の 調律は当たり前で ピアノの状態が良くなければ その日の公演は 中止になるくらいの 勢い、、、、、、のお人のようです

今から考えて見れば ソレも頷ける話では有りますね

スクゥエアと言えば 大人気 フュージョンバンド 公演場所も 大都市圏の大ホール だったでしょうから ピアノも当然 グランドピアノ だったでしょう

七尾市のライブハウス 5スポットのピアノ、、、、、、、、、

和泉さんが あぜんとして ピアノの前に 立ち尽くすのも 無理は 有りません、、、、、、

でも ピンクボンゴの連中は セッティングの準備に忙しく 誰も その和泉さんを 慰めてやったり 励ましてやる事も 出来ません!

そんな状態でも ライブコンサートは 始まりました!

和泉さん 初めてやる ピンクボンゴのレパートリーを 前もっての準備も完璧のようで 楽しそうに 演奏していました♪

始まって見れば 多少の調律の悪いピアノでも あまり 気にならなくなっていたようでした

狭い ステージで ボクと肘が くっ付くくらいの距離感です

大ホールでやられる事が多い 和泉さんにしてみたら ソレも 楽しかったのかもしれません

ジャズが 好きな 感じでした、、、

スクゥエアと言えば ピンクボンゴの二代目のドラマー 則竹裕之さんにやって頂きましたね、、、、、、

それに ボク的には スクゥエアのギタリスト 安藤正容さんは 師匠 高柳昌行さんと 同門で 同じ時期に 習っていて 

いつも 高柳昌行さんから 火曜組に 安藤と言う 良いギターが居る と聞かされていましたから 会ったことは無いのですが とても 親近感を持っていました♪

そんな 経緯もあっての スクゥエアの

和泉宏隆さんとの 共演 です

楽しく無い訳が有りません

打ち上げも 楽しく やり 次のライブハウス 神戸に 向かいました、、、

続く、、、

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2023年

11月

23日

ピンクボンゴ、、、 155

兄弟船

北の鴎歌

龍神

男の港

海の匂いのお母さん

カサブランカ グッバイ

旅枕

全 7曲 ピンクボンゴ プラス マッチさん こと セニョリータ マコさんの

体制で 鳥羽一郎さんの 持ち歌 ヒット曲を ピンクボンゴが アレンジしました♪

そのCDを 本番 3週間前に 鳥羽さんに お渡しして 聴いて頂き 練習して貰いました!

通常の ご自分の バックバンドのサウンドとは かなり 違っていたと思いますが 鳥羽一郎さん 流石の サッちゃんで 気持ち良く 歌ってくれました!

我々 ピンクボンゴ的には 余裕の ヨッちゃん でしたね!

流石の サッちゃん  と

余裕の ヨッちゃん  の

楽しい コンサート だったのではないでしょうか!

特に ボク的には かなり 想い入れが ありました!

37歳くらいの時の 菅原洋一さんのサポートの時の 失敗から 20年くらい過ぎていました 

その間 色々と勉強しました!

特に 思い出に残っていることに 

ギター で 歌謡曲やポップスの簡単な メロディを いわゆる ストレートメロディを キレイに 弾く練習のために 鶯谷のダンスホール の コンボバンドに 一年間 在籍しました。

アドリブ 一切なしの 仕事で 随分

鍛えられたと 思います、、、

鳥羽一郎さんの 持ち歌のギター パートは 演歌 ですから ガットギター からソリッドギターでの エフェクターを酷使したサウンド で やられています

しかし ワタシは 30年以上 弾いている 愛器 デアンジェリコ 一本でやり通そうと 決めていました!

デアンジェリコで 色々な 表情を 出すのです!

ワタシ的には この ピンクボンゴ +セニョリータマコ の サウンドで 歌って ごらんなさい!

と言う 心構え でした!

同じ 人間同士 スター に臆する 気持ちは ボクには 有りません!

ギターを デアンジェリコを 手にしたら 誰が来たって 大丈夫 と言う 心です!

あり得ないですが たとえ シナトラ

が 来たとしても、、、、、、        笑

珍しく 自分の事を 書いていますね

、、、、、、、、、、、、、、、、、、

コンサートも 終わりに近づいて来ました♪

おおとりは やはり 兄弟船 デスね

大路さんの ソプラノサックス イカして いました!

あの 有名な トランペットによる イントロ ですからね、、、

大路さん あがり症 なのですが カッコ良かったです。

実は 昨日 六粋堂の勝谷さんから

その時のコンサートのプライベート録音のCDを 頂いて じっくり聴いたのです

懐かしかったです、、、、、、、

続く、、、

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2023年

11月

22日

ピンクボンゴ、、、 154

北の鴎歌 と言う 鳥羽一郎さんの

持ち歌 から ショーは 始まりました

伴奏しているのは ジャズバンド、、、、、、

歌うのは    演歌歌手、、、、、、

ソレに 東京芸大出身のバイオリニスト

特異な組み合わせの 歌謡ショー デス

一年前に 横浜モーションブルー その組み合わせでのコンサートは まるで 今日の日の為の 予行練習でも あったのでしょうか 、、、、、、

見事な 滑りだしでした 鳥羽さんも

気持ち良さそうに 歌っています 

ソレもその筈でした

ピンクボンゴ的には この日のための 準備は 万全でしたから、、、

横浜モーションブルーでの コンサートは 鳥羽さんの持ち歌は 一曲も演りませんでした

夜見世クラブという名の コーナーで歌われている 歌謡曲の名曲 つまり 先輩歌手達の歌のみで構成されました

しかし 春日部市民文化会館大ホールでの コンサートは ふじちゃんカードのお客さんへのプレゼントみたいなものでしたので 鳥羽さんの持ち歌 ヒット曲を やらない訳にはいきません!

鳥羽一郎さんが 日頃 歌謡ショーで歌われている 持ち歌 ヒット曲の数々の譜面のコピーをお借りして 我々 ピンクボンゴ で どの様に 伴奏するか

という事を 大路さん ゲタ夫さん ピンクボンゴの第二の頭脳 徹ちゃん シュッとしている イケメンのジュアサ

ソレに マッチさんの意見も 大事です

皆んなで 色々 考えて アレンジを加えたりして ソレを 録音して CDにして 3週間くらい前に 鳥羽さんに渡しました

通常 歌謡界のスター級の歌手の 伴奏と言うのは ワタシは そんなに詳しくは無いのですが 

菅原洋一さんのサポートバンドの一員としての経験からですが

その人の 持ち歌 ヒット曲と言うのは

イントロ 曲中のオブリガード 間奏

そして エンディングと 全て 決まっています

一音たりとも 違う事を 弾いてはいけない様でした!

私は 菅原洋一さんのサポートの仕事を40年前くらいに

二人目のギターの師匠 潮先郁男先生から 紹介されて する事ができたのですが 初めての事だったので 上手にこなす事ができませんでした♪

数々の失敗? の末 一年くらいで クビに なりましたが、、、  今では笑

21歳くらいの時 初めて入った プロのバンドは 二週間でクビになりましたが、、、  、、、          笑

菅原洋一さんの時の失敗?は

譜面に書かれている オブリガード 歌の一番の時は 書かれている様に 弾くのですが リピートして 2番になった時 

こっちのフレーズの方が良くない? と

違うフレーズを弾いたのです、、、、、、

菅原洋一さん 相当 驚かれた様でした

コレは 後で聞いたのですが、、、

あとは 良かれと思って ギター デアンジェリコで 伴奏をしていたのですが

歌手の声より ギターの音の方が 立ちすぎる と言われて ソリッドを弾いて下さい と言われてしまった事です、、、、、

初めての事は 色々と わからない事が

多いのですね、、、

この様に スター級の歌手の伴奏は通常と 一音でも 変えてはいけないのに

そして ヒット曲に至っては イントロを吹く 楽器も変えてはいけないのに

鳥羽一郎さんの 大ヒット曲 兄弟船の

イントロは トランペットです、、、

ピンクボンゴにトランペット吹く人

いません、、、

大路さん ソプラノサックスで 吹きました、、、、、、、、、、、、

続く、、、

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2023年

11月

21日

ピンクボンゴ、、、 153

鳥羽一郎ショー が始まりました、、、

1500人の観客を前にして 本格的な

演歌歌手の 伴奏 をピンクボンゴが 演る と言う 有る意味 ピンクボンゴのファンの立場から すると 非常に 面白い ライブ だったのかもしれません!

鳥羽一郎さん サイドから見たら 多少の緊張もあったのではないでしょうか

何故なら 鳥羽さんの ファンの方々が多く 集まる 日頃の 鳥羽一郎ショー とは異なるし しかも 伴奏は 自分の バンドではないのですから、、、

ソレでも 音響スタッフは 鳥羽さんの専属の方々 にお任せしましたから

安心でした

歌手にとっては 生命線ですからね

大路さんは 高橋真梨子さんのサポートや 渡辺真知子さんの サポートバンドの ハンドマスターを 演っていた様でしたので 歌手の伴奏は お手のものです。

ゲタ夫さん だって 天童よしみさんのサポートを 現在でも されてい

くらい歌伴は バッチリ です、、、

徹ちゃんは 演歌歌手の伴奏については

詳しくは 知りませんが 有る意味 天才 ですから 何の問題も 有るはずが ありません、、、

ソレに ジュアサにいたっては イケメン で 身体も シュッとしていて カッコいいですから 何の問題もあろうはずが ありません!     少し笑、、、

カポネさんは マフィアの大物 ですから 大丈夫です!

ソレに 鳥羽一郎さん専属の マッチさん がいるではないですか!

兄弟船ではなくて 大船に乗っている様な気持ちだったのではないですか?

       笑、、、

鳥羽一郎さん  一曲目  北の鴎唄

と言う 威勢の良い 曲から ショーが始まりました、、、、、、

続く、、、

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2023年

11月

20日

ピンクボンゴ、、、 152

鳥羽一郎&ピンクボンゴショー

と銘打った イベントが 春日部市民文化会館大ホールで またまた マッチさんこと セニョリータ マコさんの 口利き で実現しました!

ふじちゃんカード なるものの 利用者の方々 を招待する形 で行われました

昼公演 14:30〜16:30

夜公演 18:30〜20:30

一回につき 1500人の 方々が来場されました、、、、、、

サラッと 書きましたが よ〜く 考えてみると コレは ピンクボンゴにとっては結構 大変な事でした、、、

何時も ジャズのライブハウスで せいぜい 50〜100人 くらいの お客さんの中で 演奏をしています♪

ソレが いきなり 1500人 ですから、、、  汗

しかし もっとよ〜く 考えてみると 

ピンクボンゴ 全体としては そうですが 大路さん ゲタ夫さん カポネさん

徹ちゃん ジュアサ  マッチさん

お一人お一人は 今までの 音楽の仕事の経験では もっと 大人数 大きな コンサートを やられてきた 猛者ばかりです、、、、、、

余裕のよっちゃん でしたね、、、

少し 生意気な事を 言ったかもしれません、、、

申し訳ないです、、、            笑

コンサートの最初は 

春商協 の会頭さん お堤さんの 挨拶

そして 春日部市長さんの挨拶などが有り

ピンクボンゴの出番です!

ピンクボンゴのテーマ

真っ赤な太陽

ブルーベルベット

情熱の花

足手まとい

ピンクボンゴです 、、、、、、

なんだぁ! 歌 ばっかりじゃないか!

と思いましたが お客さんの全ては

ふじちゃんカードの利用者の方々 と言う事を 考えた上での 大路さんの選曲

ソレなりに 良かったと思いました

春日部には ピンクボンゴ 馴染みがありましたので 1500分の50 ?位は ピンクボンゴのファンの方もいた様で 

少しは 喜ばれた様でした、、、

ピンクボンゴです も終わり、、、

さあ コレから 鳥羽一郎さんを 呼び込んで 鳥羽一郎ショー の始まりです

お客さんの皆さん お待ちかねです!

この前の 横浜 モーションブルーでの

鳥羽一郎さんと ピンクボンゴの関係の様な訳には 行きません!

主役は 鳥羽一郎さんですから、、、

続く

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2023年

11月

17日

ピンクボンゴ、、、 151

2012年 11月2日 春日部市民文化会館の 大ホール で 春日部市商業協同組合 創立 25周年 感謝のコンサート

のお手伝いを 我々 ピンクボンゴ に

託されました、、、

ピンクボンゴ と言う 大路さんをリーダー とした スクランブルミュージックバンドが 有る意味 春日部市を挙げての コンサートに 出演する訳ですから  当時としては 普通の気持ちで いたのですが 今 思い起こしてみると

大変な事 凄い事をしたんだなぁと 感慨深いものが ありますね、、、

宏さんの お父様 春商協 の会長さん

実に フランクで気さくな方 です

何度も お会いして 一緒に 酒席を囲んだり お食事をしたり それは

それは 楽しい思い出が たくさん有ります。

一番 印象に残っているのは 

お話を される時や 何か ワタシに意見を求める時など ボクの顔を ニコニコと満面の笑みをたたえながら 下から覗き込む様にして 見る仕草、、、

たまりません!

なんて 優しい人なんだ! と嬉しくなります、、、

春日部市の偉いお人が そんな感じで

お相手して頂けていたので 普通の 出来事の様に そのコンサートを 引き受けて しまったのかも しれません、、、

そのイベントは 100万円単位の後ろの方

のお金が 動く 大きなモノ でした!

さすが 春日部市商業協同組合 の会長さんのやる事ですね、、、

凄いです!

ソレで 当の 鳥羽一郎さんに 誰が

声をかけるのか?  と言うことになると   ヤッパリ  マッチさん しか居ないのでは無いでしょうか、、、

続く、、、

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2023年

11月

16日

ピンクボンゴ、、、 150

鳥羽一郎さんと ピンクボンゴの繋がり、、、

横浜のモーションブルー だけでは

終わりませんでした!

春日部、、、  

大路さんの 第二の ふるさと

(全国 他でも ご本人言っていました)

      笑

と言っていたように  ピンクボンゴ的にも 縁が 深い 所でした

目抜通りの両側に 藤の花棚が 200メートル? くらい 有りまして 季節になると ソレは 見事に 咲きほこり

町をあげて お祭り 藤まつり が 行われます。

お祭りに 付きものの 縁日の屋台さんが たくさん 出店されて 大変な 賑わいを見せてくれます♪

春日部市商業協同組合の偉い人が名店

お堤園さん?の会長さんで 宏さんのお父様 でした    

春商協発行の お買い物カード と言うのでしょうか その名前が

フジちゃんカード 

と言うカワイイもので、 市民の皆さんが 多く利用されているようでして

その フジちゃんカード の25周年記念

に 感謝祭 を執り行いたい!

感謝祭の一環として 有名な歌手 のコンサートを やりたい!

と言う 要望が ワタシども ピンクボンゴに来ました!

春日部の街の偉い人が 我々のような

バンドと 親しくして頂けるなんて 

なんと言う 光栄 でしようか

ソレもコレも 六粋堂さん の一人 勝谷清一さんの力も有ったと思います、、、

    笑

ソレで 有名な歌手 との ご要望なので 鳥羽一郎さんを 推薦すると 一も二もなく 良いですね と 会長さん

ニッコリ 微笑んでくださいました!

春日部市商業協同組合 挙げての イベントですから 

横浜モーションブルーでの ピンクボンゴと 鳥羽一郎さん 夜見世クラブのジョイントコンサートの様な訳には行きません 

あの時は 鳥羽さん ギャラは ご本人

マッチの頼みなら 要らない !

くらいの勢いだったのですが ノーギャラ と言うわけにもいかず 

ほぼ 我々と同じ程度のギャラしか お支払いしなかったのですが  すみません、、、

今度は 違います!

何せ 会場は 春日部市民文化会館 大ホール ですから

1500人はゆうに 収容する事が 出来ます!

ギャラも 百万円単位 です!

続く、、、

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2023年

11月

15日

ピンクボンゴ、、、 149

横浜 モーションブルー での ピンクボンゴと 鳥羽一郎さんの夜見世クラブ

的なスタイルとの ジョイントコンサート ある意味において ジャズ界 にとって 貴重な 事 だったのではないでしょうか?

大路さんの スクランブルミュージック

を象徴する様な イベントでした!

しかし ボク的には やはり ジャズ ラテン 洋楽のファンの方たちと 演歌界のファンの方々との 敷居の高さと言うか 異質なものを 感じましたね、、、

しかし 鳥羽一郎さんとの 繋がりは それだけでは おわらなかったのでした

、、、、、、、、、

続く

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2023年

11月

14日

ピンクボンゴ、、、 148

皆さん こんばんは 鳥羽一郎です、、、

とのMC で始まった 夜見世クラブ?とピンクボンゴ、、、

本来 鳥羽一郎さんの コンサートで行われている 夜見世クラブは  演歌の歴史的なスタイルであるらしい ギターとバイオリンと 本人の 3人で演奏をしているようなのですが モーションブルーでの時は バイオリンの マッチさん だけの 参加でした♪

鳥羽一郎さん MCで  そのような事を

話されて 数々の 演歌の名曲を 歌います と 言ったと思います、、、

話しは 横に それますが 

マッチさん、、、、、、

初めて 鳥羽一郎さんのサポートの仕事に 出向いた時 出演は その 夜見世クラブのコーナーの 20分 くらい

だけ だったようです、、、、、、

仕事的には 拘束時間は 長いものの

20分位で 仕事が 終わり 約束された

1日分の ギャラを 貰えるわけですからワタシなら 嬉しいと言うか 楽な 仕事だと思うのですが  マッチさん 

もっと 弾きたい!   

と マネジャーさんに 直訴 したそうです、、、、、、

ピンクボンゴにおいて ワタシの  オレに もっと弾かせろ!

と言うのは ギャグ ですが    笑

マッチさんの 場合は ギャグではなく

真剣の様でしたので 鳥羽さん を含めた スタッフの方々は 驚かれたと同時に 嬉しかった様です、、、

過去に そんな事を言ってきた バイオリニスト は居なかった様ですので、、、

ソレで 大ヒット曲の 兄弟船 を含めて コンサートで歌われる 全ての曲

バイオリンのパート を 付け加えたそうでした、、、、、、

専属の 編曲家の先生 アレンジのし直しですから 大変だったと思います、、、

そん経緯も有り 鳥羽一郎さんとマッチさんの 絆? が 深まっていき

そんな訳で 鳥羽さん マッチさんに

死ぬまで 一緒に 演奏をして欲しいと

言っていた様でした、、、

鳥羽一郎さんとの演奏も 奈良方面のコンサート中に マッチさんが くも膜下出血で 倒れると言う 事態になり サポートのお仕事も 終わりを迎えてしまいました、、、

文字通り 死ぬまで サポート やったと思います、、、

マッチさん  お疲れ様でした、、、

話は モーションブルーに 戻りますが

そんな訳で 大ヒット曲の 兄弟船 は

その日は 封印されて

夜が笑っている   織井茂子

夜霧のブルース   ディック ミネ

赤と黒のブルース  鶴田浩二

、、、、、、、

などの 曲達を ピンクボンゴと鳥羽一郎さんとマッチさんで やりました。

ボクも 夜霧のブルースでは コーラスパートを作り 大路さん ゲタ夫さん 徹ちゃんの三声で ハーモニーを 付けてあげました

鳥羽さん 気持ちよかったと思います、、、

ピンクボンゴの 歌謡コーラスパート

強力ですから、、、

続く、、、

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2023年

11月

13日

ピンクボンゴ、、、 147

ある年の 海の日の 横浜 モーションブルー 、、、、、、

ピンクボンゴのコンサートにしては 珍しい雰囲気の中  ライブが 始まりました。

鳥羽一郎さんは ステージの後半からの登場ですから  我々 5人 の登場です

いつもの様に ステージの登場から パフォーマンスが 始まっているのですが

全く 受けません!    笑

客席中央部分は 鳥羽さんのファンの方々で 占められていて アウェイ感 満載デス、、、

ジャズ ラテンのファンの方々 いわゆる 一般の洋楽ファンと 演歌 のファンの 垣根と言うか 敷居は 高そうでした、、、、、、

ソレでも 気を取り直して ピンクボンゴのテーマ や 真っ赤な太陽 などの

ピンクボンゴの持ちネタの曲などを 数曲 こなして  いよいよ 大スター

鳥羽一郎さんと お付きの マッチさんの 登場です!

大路さんが 

それでは 鳥羽一郎さんの 登場です!

と MC をすると やっぱり あの噂は本当だったんだ! とばかりに 悲鳴の様な 黄色歓声が 客席中央付近から 溢れました、、、、、、

鳥羽さん ハデな スーツに 真っ黒い

サングラス  コレがまた 良くお似合いです!

会場の隅の方の 出入り口から ステージの前を横切って 端の 3、4段の階段を上って ステージ中央に着席 する迄 

歓声が 止みません!

トバさ〜ん !  トバさ〜ん !

イチロー〜〜! 、、、、、、

イヤ〜 物凄いものを 観た 思いでした!

鳥羽一郎さん とても シャイな 感じの人で ナイスな 感じです、、、

マッチさんの お陰で プライベートの催しなどで 何度も お会いしているので ボク的には お馴染みだったのですが、、、

例えば 鳥羽一郎さんが結婚式の

お仲人さんをされる時など マッチさんとの テンダリーズで 何度も 演奏しましたね、、、、、、

そんな時などは 

旦那! ジャズやってるんだってね

小ちゃな 小汚いところで やってるのかい?

なんて 冗談を 飛ばしていましたね、、、

昔の ジャズ喫茶のイメージしか お持ちではなかったようで、、、

まあ そんな 仲だったのですが

そんな 鳥羽一郎さん

ステージ中央に着席して マイクに向かって 話しました!

皆さん こんばんは 鳥羽一郎 です!

続く、、、

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2023年

11月

10日

ピンクボンゴ、、、 146

セニョリータ マコ さん 

ゲタ夫さんが 命名したのです

あちらの世界では  マッチ と呼ばれていました、、、

マッチの  一言で 鳥羽一郎さんの出演が 決まって やはり 海の男 だから 日程は 海開きの日 7月20日頃?

が良いだろう と決まりました

鳥羽さんの会社には 内緒 でしたので

正式に 告知も出来なかったのですが

ピンクボンゴサイドは あの手この手 をひねくり回して 告知しました。

蓋を開けてみると モーションブルーの会場は 満席 でした

しかも 鳥羽さんの ファンの方々が 50人以上は いらしていたようでした

どうやら 鳥羽さんサイドに 近い 筋に 漏れて 噂が一気に 広まった様でした、、、

ある種 異様な 会場の雰囲気、、、

ピンクボンゴ ファンの方々

鳥羽一郎さんのファンの方々

服装 ファッション まるで 違います

一目で 分かるくらい、、、、、、

音楽に対する反応も 全然違って 

ソレはソレで 楽しかったですが、、、

鳥羽さんのファンの方々にとっては いつもは 2000人くらいは入る 大きなホールでしか 観ることが出来ない 鳥羽一郎さんが すぐそば 手を伸ばせば 届きそうな位置に いるのですから 

もう 興奮して 大変です!

スター と言うのは そう言うものなんですね、、、、、、

鳥羽一郎さんのファンの方々には 嬉しい出来事 だったのではないでしょうか

鳥羽一郎さん  師匠の 作曲家の船村徹さんの影響を受けていて ご自分の 持ち歌以外に 演歌を大切にされていて

先人達の 演歌の名曲を 歌い継いで行く と言う事を 日頃から されていました

夜見世クラブ? と言う名前の コーナー を ご自分の コンサートの 中間くらいに されていました

夜が笑っている   織井茂子

夜霧のブルース   ディックミネ

赤と黒のブルース  鶴田浩二

    、、、、、、、、、

など など の曲を 

バイオリン 

ギター 

本人の歌 +ギター 

の3人で 演る 夜見世クラブ?

演歌の歴史的な 演奏スタイル の様でした、、、、、、

ボクが 27〜8歳くらいの時 新宿で はこ の仕事をしている時 何度か 流しの歌い手さんを 見た事が有ります

バイオリンのおじいちゃんと ギターの方と 歌手風な 青年 の3人組、、、

珍しかったので 暫く眺めていると 小さな呑み屋さんを一軒 一軒 回って 流して いました、、、、、、

大変な お仕事だなぁ と言う 印象でした。

その スタイルが 演歌の原型なのでしょうか、、、、、、

その 夜見世クラブの 雰囲気を 

モーションブルー のステージに

鳥羽一郎さん 持ち込んだのでした♪

続く、、、

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2023年

11月

09日

ピンクボンゴ、、、 145

海の男 鳥羽一郎さんとの モーションブルーでの ジョイントコンサート 

いわゆる お忍びの出演のために 広く

告知する事が 出来なかったので 

集客は あまり期待していなかったのですが 、、、、、、、、、

我々ピンクボンゴサイドは 集客の為に

企画して居るので ホームページの BBS欄に 連日 殆ど ソレと分かるように 書き込みをしました

海の男! の大スターの演歌歌手、、、

来る!   とか 

鳥⚪︎一⚪︎ とか、、、    笑    

今日はもう時間が無くなってしまいました 、、、、、、

すみません   申し訳ないデス、、、

続く、、、

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2023年

11月

08日

ピンクボンゴ、、、 144

セニョリータ マコさんが アッサリと

鳥羽さんに 聞いてあげようか?

と言うのには 訳が 有りました、、、

セニョリータさんは 既に 20年以上も 鳥羽一郎さんの サポートバンドに 在籍していました。

ワタシの場合は 菅原洋一さんのサポートバンドを 二人目の師匠の 潮先先生に 紹介して頂いたのに やり過ぎて 一年もしないうちに クビに なったのですが、、、、、、

セニョリータ マコ さんは 鳥羽一郎さんの サポートバンド バンマスが 3度 代替わりしても 残されて 在籍し続けていると言う 強者 なのです!

普通 歌手のサポートバンドは バンドマスターが 変わると 他のミュージシャンも全て変わるのが 通例なのですが

、、、、、、、、、

ジプシー系の音楽 の セツナサ と演歌の 悲しみ セツナサ が 会い通じるものが 有ったのでしょうか、、、

死ぬまで いて欲しい と 請われていました、、、 スゴイネ、、、

そんな訳で 

セニョリータ マコさん あちらの世界では  マッチ  と呼ばれていて 

鳥羽一郎さん マッチの頼みなら

何処でも行く! 小銭の ギャラなんか

いらないぜ!

と言ったとか 言わないとか 定かでは有りませんが

兎に角 鳥羽一郎 海の男!のキャラ通りに 夏の 海開きの日 

横浜の モーションブルー で ピンクボンゴ ➕スペシャルゲスト 鳥羽一郎 +セニョリータ マコ なる ユニット が 出来上がりました、、、

鳥羽一郎さん  ピンクボンゴのユニフォーム 真っ黒い サングラス も掛けて くれました!

セニョリータ マコ さんも 同じように 真っ黒い サングラス、、、

残念ながら 鳥羽一郎さん 専属の会社との 兼ね合いもあり 前もっての告知をする事が 出来ないのです、、、

いよいよ 海開きの日 が 横浜にも 

全国的にも やって来ました!

続く、、、

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2023年

11月

07日

ピンクボンゴ、、、 143

芸能人とピンクボンゴとテレビと言えば 

思い出すのは 2005年の 伊藤君子さんが やられていた NHK BS?の番組に出させて頂いた事が有ります

そこで 君子さんが 

ラブユー東京 と言う ムード歌謡を歌われ その伴奏をピンクボンゴの大路さんアレンジで やると言う、、、、、、

さらに ワタシの 足でまとい を

歌うと言う 暴挙 に出ました!

なんと言う 恐ろしい事を、、、、、、

ピンクボンゴって なんと言う無茶苦茶な バンドなんだ!、、、

記憶にあるのは 足でまといを歌った時 

モニタースピーカーが 丁度 立ち位置の 足元のフロアーに埋め込まれて居るようになっていて 非常に 歌いやすかった です、、、、、、  笑

2006年には 今の若い人は 記憶に無いかもしれませんが

彼の 車に 乗って 🎵

と言う歌詞で始まるヒット曲を歌った 

平山ミキ  さんと ピンクボンゴ

ジョイント コンサートを NHKテレビ

でやりました、、、、、、

そして 芸能人 歌手 との ジョイントコンサート で 忘れてはならないのは 鳥羽一郎さん  ではないでしょうか!

大路さん 何故か その様な ジョイントコンサートに 非常に 意欲的で 

常日頃から そんな事を言って居て 

誰か 良い人 居ないかな?

と探し求めていましたが 当時は マネージャー が 不在の時で 我々だけでは そんな  縁 もなく、、、、、、

ボクも 大路さん ピンクボンゴの為に

力になりたいなぁ と思っていましたが

、、、、、、、、、

そんな時 セニョリータ マコ さんが

鳥羽さんに 聞いてあげようか?

と 事もなげに アッサリ 言いました!

あの 兄弟船 の演歌 で大ヒットを飛ばした 歌手 でした、、、、、、

続く、、、

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2023年

11月

03日

ピンクボンゴ、、、 142

朝がた近く 名古屋に 着きテレビ局の近い所のビジネスホテルに 大路さん

ゲタ夫さん ワタシ ビンマネの四人 が 宿をとりました

4時間程度の 仮眠ののち テレビ局へ

出発です、、、、、、

ホテルのフロントで それぞれ 部屋の鍵を ビンマネから 貰い 部屋に直行

倒れる様にして ベットへ、、、

その前に 目覚まし時計を セットしなくては、、、、、、

名古屋テレビ局、、、、、、

ビンマネ慣れた感じで スイスイ我々を 誘導して 控え室に案内しました 

そして 打ち合わせの為に 何処かへ、、、

ワタシ的には 過去にも 何度か ピンクボンゴ で NHKに 出たことが 有り それに リーダーでは無いので気が楽です そんなに 緊張はしませんでしたが

大路さん 緊張して居る 様子

そう言えば 大路さん ああ見えても

かなりの あがり症 です

以前の NHKの時も 上がっていましたから、、、

ライブの時も 必ず 始まる前は 

バーボンの ハイボール? を一杯

呑むのが 決まりになっています♪

勢いを つけるのだそうです、、、

リーダー としては やはり そうかもしれませんね!

我々が 出演した番組は いわゆる 朝の モーニングショー 的な モノでした♪

二、三人の 司会者がいて 今 話題の人 グループ を取り上げて 紹介する

と言う コーナーに  ビンマネさとみさんが ねじ込んで くれたのでした!

演奏する訳ではなくて 司会者の 質問に答える 形で 進行して行きます

案の定 質問は 大路さんに 集中します、、、、、、

グループの名前は なんて 言うのですか?

結成したのは いつ頃ですか?

どの様な ジャンルの音楽を やられて

居るのですか?

何処に 出演して居るのですか?

これから どの様な 活動をされて行きますか?

の様な 質問が 台本通りに 展開されました、、、

その一つ一つに 大路さん 丁寧に

応えています♪

たまに ゲタ夫さん ワタシにも 質問が 回って来ます

メンバーの皆さんは どうですか?

みたいに、、、

時間にして 10〜15分 も有ったでしょうか?

結構 長くいた感覚 なのでしたが、、、

名古屋方面を中心に 見られて居る番組のようで 後から 観ましたよ と言う

お声がけを 多く頂きました、、、

テレビ 芸能界 と言えば ピンクボンゴ 過去にも 多くの ジョイントや 

出演が 有りましたね、、、、、、

続く、、、

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2023年

11月

02日

ピンクボンゴ、、、 141

ビンマネさとみさん 色々頑張って出演する場所などを

新しく 開拓してくれていました、、、

我々だけでは 視野も広がらず ライブハウスも 既定路線を 走るようにして

演っていたのですが 

西日本方面のツアーの時 の事でした

確か 大阪か京都 辺りのような 記憶なのですが ライブが終わって 

これから 名古屋まで よばしり します! と ビンマネさとみさんが言いました、、、

よばしり とは 網走の親戚の事 ではなくて夜中に車で 移動する事 のようで 特に 過密なスケジュールをこなさなければいけない 芸能人などが 多くやっているような 噂を小耳に挟んだような事を 徹ちゃん が言っていました 

        笑

一部 適当な事を言っております、、、

申し訳ないです、、、、、、    

移動する 車の中で ビンマネさとみさん 名古屋テレビの 朝の ワイドショー 的な 番組に 出演して貰います

テレビ局への 入り時間が 早いので

すみませんが よばしり になりました

と言う様な事を 言って 頭を下げました!

大路さんが  

とんでもない!

頭を 下げないでください

大丈夫です 頑張ります!

ボクも  右にならえ! 的な 気持ちでした

ゲタ夫さんは もう休んでいたかもしれません?

大路さん ゲタ夫さん ワタシの3人 だけが 名古屋に向かったのですが、、、、、、

一応 テレビに出演すると言う事は マネージャ的には 大変な 努力が 有ったことだろうと 思います、、、

幾ばくかの 緊張を 感じながらも いつしか ライブの疲れも有って 眠ってしまいました、、、

ビンマネさとみさんの 運転する車 静かに 名古屋に 向かっていました、、、

続く、、、

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