ピンクボンゴ、、、 21

何故か ジャズノスタルジア と言う名前で 

大阪で コンサートをした ピンクボンゴ、、、

大路さんの中では まだまだ ピンクボンゴ、、、

と言う認識が無かったのかも しれません

本当に ピンクボンゴ史 初期の頃 でした

大路さんやゲタ夫さんと一緒に演奏する前

ボクは 都内の ホテルのラウンジで 長いこと

スタンダード ジャズ を中心に BGM として

演奏していたので  いわゆる バンドのファン

と言う人たちの存在を感じた事が 有りません。

若い時から37歳までの 17年間 2人の 師匠高柳昌行さんと 潮先郁男さんに付いて ギター とジャズ を勉強して来ました、 その頃は キャバレー やサパークラブのような所で あくまで BGMとして 演奏していて 演奏を真剣に 聴いてくれる人などいなかったように思います。

ボクにとっては 演奏すると言う事は 生活費を作る アルバイト と同じで 生きる 主の目的は ギターをジャズを勉強すること のためにあり 2人の師匠のレッスンをうける事! でした

そんな 私が 大路さんやゲタ夫さんと ピンクボンゴという名前のバンドの一員として 大阪でコンサート、、、、、、

今までのような BGM では無いのです、、、

お客さんたちは 一生懸命 我々の 音楽を聴いてくれています

適度な 緊張感が有り 演奏する事が

楽しかった、、、、、、

聴いてくれている 人達の為に 演奏する、、、

その中には ファン  と呼ぶべき人達が居る

僕にとっては 新しい 経験でした

バンドのファン

個々のミュージシャンの ファン

それを 意識した 最初の人が 大阪での ジャズノスタルジア を聴いてくれて しかも

何故か ウチアゲ、、、、、、

この ウチアゲ という物も 多分 初めての経験でした。

その ウチアゲにも参加していた  八木尚子

さん、、、

その時を境にして 何度も 我々 ピンクボンゴのライブに足を運んでくれて、、、

そして その度に 

みたらし団子、を 差し入れて 頂いて、、、、、、

いつのまにか みたらし団子の 尚子さん

みたらし団子の尚子さんと 我々の間で 呼ばれるようになりました。

ボクが ファンという方の 存在を 認識した

最初の人 でした

懐かしい!そして 有り難い 人!

それ以後 ピンクボンゴには 素晴らしい 沢山の ファンの人達が 出現 いたします

いずれ 形を変えて その人達のことも 書かなくては いけないですね、、、

何故なら 大切な 人達、、、、、、  ファン ですから、、、、、、

続く、、、、、、